海が見たい、と言われたので深夜の首都高に車を走らせる。
カーナビなんて大層なものは付いてないので目の前のスマホで近くの海水浴場を調べたが、さすがにこの時刻では大抵の場所は立ち入り禁止だった。
東京の夜はいつだって明かりが絶えない。少し出ただけでも、あちらこちらにあるマンションや工場の明かりが、底知れぬ黒を飲み込んだ水面に反射しててらてらと輝いていた。
「お前、オレが酒飲む前でよかったな」
車の後部座席に転がるコンビニの袋にちらりと目をやり、佐治雪哉は隣へ視線を戻した。その視線の先、隣の助手席に座っている天谷吏人は、どこをみるともなく窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。
「なんか言えよ。せっかくの再会だってのにつれねぇなあ」
微塵も反応を示さない吏人に佐治は唇を尖らせながら、目の前のハンドルを回した。
「大体、会ってすぐ海に行きたいとか何だよ。今何時だと思ってるんだ」
佐治はそう言って手元のスイッチを操作し、助手席の窓を開けた。ぶわりとそこだけ風が渦巻き、吏人の髪を雑に巻き上げた。突然の風に身じろぎして、吏人は少しムッとしてこちらへ振り向いた。
その顔にひゃはは、といたずらそうに笑い、佐治はFMのスイッチを入れた。車内のエンジン音と風の音をすり抜けていくように、少し雑音まじりのニュースが流れていく。
『さあ、本日も大盛りあがりだったワールドカップ日本対ドイツ戦! ハイライトへ参りましょう! 4ー3で快勝し、前人未到のハットトリックを決めたのはもちろんーー』
ラジオの向こうのアナウンサーは、興奮冷めやらぬまま本日のワールドカップのハイライトの実況を読み上げようとしていた。しかし、吏人の指がまっすぐにラジオの電源ボタンへ伸びて、その先の言葉はぶつ切りに打ち切られた。
「意地悪すぎませんか、佐治さん」
不満そうに唇を尖らせて、吏人はようやく口を開いた。
「別に偶然聞いただけだし?な?」
そう軽快そうに笑い、佐治はさらに言葉を続けた。
「なぁ、本日のハットトリックさんよぉ」
そう、海が見たいと無茶を言い、隣で外を眺める無愛想な助手席の男は、
―――今や、日本の宝だ。
◇◇◇
天谷吏人がプロ転向するという噂が流れた一方で、佐治雪哉が少しずつ芝を踏みしめなくなってから幾数年。
その頃にはすっかり、”LIGHT WING”天谷吏人の名を聞かない日はないほどになっていた。
はじめの頃は吏人が後輩だったと周囲に自慢げに話していたこともあったのだが、次第にどこからか別の感情が湧き始めて、佐治はそのことについて話をしなくなった。
その感情が羨望だったのか、嫉妬だったのかはわからない。ただ、4年に一度のワールドカップが近づき、世間の盛り上がりとは裏腹に目を逸らし続けている日々が続いていた。
最寄り駅の改札を降りると、臨時で立てられた仕切りの中に大きな特設広場が目にはいる。日中はがらんとしているのに、今や仕切りぎりぎりまでぎっしりと青い服で埋まっていた。そうか、今日は試合かと思い出した佐治は、会場の目の前に堂々と映し出される特設ビジョンをちらりと横目で見やった。
もう試合は終わったようで、ゴール付近のハイライトが映し出されていた。”奇跡のハットトリック”と書かれた見出しには、10の背番号と”LIGHT WING”天谷吏人の名が踊る。そして映像の中では、まるで羽が生えたかのように軽やかにゴールを捻じ込む彼の姿があった。
「はは、相変わらずヤベーな、アイツ……」
佐治はそう独り言をつぶやきながら、他の選手と熱い抱擁とハイタッチを交わす吏人を眺めていた。
『さぁ、ではヒーローインタビューへ参りましょう!』
天谷選手とアナウンサーに呼ばれ、画面の大ビジョンに吏人の顔が大写しになる。その瞬間、周囲がワッと騒ぎ出し、それぞれが思い思いの歓声を一斉に上げた。
会場がにわかに盛り上がる一方、佐治は咄嗟にビジョンから目をそらした。
―――なぜだろう、嬉しいはずなのに、画面上ですら吏人と目があうのが辛い。
胸の内のよくわからない、もやもやする感情を抑えながら、佐治はその場を後にした。
特設会場から一番近いコンビニまでたどり着くのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。駅前のコンビニはサッカー好きの若者がごったがえしていて入ることすらできなかったので、少し外れの方まで行かなくてはいけなかった為だ。
なんとなくそのまま買って帰るだけだと癪なので、佐治は少し雑誌を立ち読みした。だが、その隣のスポーツ新聞にも彼の名前が大写しになっていたので、どうしても集中することができず、心の中で舌打ちをした。
酒とつまみを買い、帰り道へと向かうときには、夜も更けて周囲の人混みはまばらになっていた。といってもきっとここではなく、どこかの店に場所を変えただけなのだろう。
それでも、騒がしいよりましだな。と佐治は一人呟き、静かに帰りの足を早めた。
きっとこのまま家で酒のんで終了だ。この感情だって、明日にはきっと無かったことになるはず―――と、佐治はこの時は思っていた。
「佐治さん」
突然名前を呼ばれて、佐治は周囲を見渡した。声の主はどこにも居ないように見えたが、電柱の後ろからそっと飛び出して、佐治の目の前へと顔を出した。
その人物の正体に、佐治は思わず驚愕した。
深めの帽子を被っているが、燃えるような赤みのかかった茶髪と、少し小さい背。そして、まるですべてを見透かしたような鋭い目。
―――忘れるはずもない。先程ヒーローインタビューでみた”LIGHT WING”天谷吏人そのものだった。
「お、お前、吏人か?」
佐治が咄嗟に出た言葉は続くことはなく、吏人に突然手で口を塞がれた。
「名前、今は出さないでください」
「っ……なんでこんなところに」
落ち着け、と吏人の手を引き剥がし、佐治は続けた。
「話は後です。それより」
「聞けよ!」
佐治の質問を一方的に無視し、吏人は矢継早に言葉を紡ぐ。
「佐治さんに、話があって。どっか、人気の無い場所知りませんか」
「はぁ!? ……俺に? ここじゃだめなのか?」
「ここじゃ話しにくいので、どこか」
そういって、まるで話を聞く気がない吏人に佐治は戸惑った。―――ああそうだ、いつもコイツは唐突に、突拍子もないことばかりして俺たちの心をかき乱していくんだ。
まさか卒業してもなお、振り回されるとは思ってもいなかったが。
どうしたらいいんだ、と佐治は困惑したのだが、
「早く……」
と、吏人の様子がいつもの余裕ある態度とは違い、やけに焦っているように見えた。
―――もしかして、今日じゃなきゃダメなのか?
そう思った佐治は、めんどくさそうに頭を掻いた。
「ほんっとーに、そういうところは変わんねぇよな、お前」
佐治はため息をつきながら自分の鞄から車の鍵を取り出し、吏人に見せるように人差し指に掛けてくるりと回した。
「乗せてってやるよ。せっかくだし夜のドライブとしゃれこもうや」
どこ行きたい?と告げる佐治に、吏人は深く帽子を被り直し、口角をあげた。
◇◇◇
唯一車が停められそうな海水浴場を見つけたが、海水浴場とは名ばかりの少し砂浜があるだけの小さな駐車場みたいな場所だった。海の上には貨物船が横切り、向かい側には大きな工場が鎮座していた。ここにレジャー感覚で来るのはいささか不釣り合いのようにも見えるが、吏人は別に不満はないように見えた。
車を降り、佐治が小銭をおろすために自販機でジュースを買って戻るころには、吏人は車を出て波打ち際へと足を運ばせていた。
「クラゲがいるかもだから刺されんなよ」
佐治が吏人に向かってくぎを刺す。その忠告を聞いているのか聞いていないのか、吏人は靴を脱ぎズボンの裾をたくし上げてそっと浅瀬に足を付けた。
深い黒を湛えて鈍く光る海水は、足元に目をやるとただの透明色になり、打ち寄せる波はまるで漆黒へ誘うように砂をさらっていく。
吏人はその様子を、ただぼんやりと眺めていた。
「佐治さんは」
「わざわざ車汚す真似するかよ。満足したらちゃんと足拭けよ」
呼ばれた佐治はこちらへ歩くことはせず、車のフロントにもたれかけたまま吏人を見つめていた。
「……で、そろそろ理由を教えてもらおうか」
佐治は腕を組み、まっすぐに吏人を見つめて呼び止めるように話を切り出した。
「あ……その前に」
吏人はまるで今思い出したかのように、こちらを振り返り口を開いた。
「W杯が終わったらイタリアのチームの契約が決まってます。まだ非公開のネタなんスが」
その言葉を聞き、佐治は狼狽したように口元がヒクついた。ワールドカップだけでもとんでもないことなのに、吏人はさらにその上へと向かっていたのだ。どのチームなのかはわからないが、吏人に声をかけるなんてどうみても強豪チームに違いないだろう。
佐治は平静を装った姿勢をしていたが、暫く忘れかけていた”あの感情”がチリリと胸を焦がしたような気がして、歯を食いしばった。
「へ、へぇ……そりゃえれぇことだな」
「なので、多分明日のフライトで暫く帰れない」
「……」
言われた時点で理解はしていたことだが、あまりにも唐突すぎて佐治は言葉を失った。このおかげで先ほどまで吏人が急いでいた理由もわかったのだが、それにしても急すぎる報告だ。
吏人は微動だにせず佐治を見つめていた。駐車場のライトがぼんやりと吏人の頬を映すが、その表情は深めの帽子のせいでよくわからなかった。
「いや、良かったじゃねえか! お前の翼が、世界まで届いたんだ。てか何だよ、オレに自慢しに来たのか? それとも、もうホームシックになってオレに引き止めてほしいってか?」
佐治は、矢継早に感情をそのまま吐き出した。どうにも理解ができない部分があったからだ。
吏人が明日には海外へ旅立つのは理解したが、わざわざここまで連れ出して自分に伝える理由がわからない。それこそホームシックになって帰りたいとか言い出すのかと思ったのだが、そんなものをわざわざ呼び戻す力は自分にはないからだ。
「引き止めてほしいわけではないです……ただ、言い残したことがあって」
「?」
わけのわからない様子の佐治を後目に、吏人は帽子の鍔をあげ、覚悟を決めたように言葉を発した。
「オレ、ずっと佐治さんのことが好きだったんスよ」
波の音が、静かに寄り添うように響き渡る。
―――夜の海は、ただ静かに二人を包み込んでいた。
◇◇◇
「なっ……!」
佐治は狼狽し、立ち尽くした。
友達として好き、または部活の先輩として好き、という意味だと認識しておいてこの場を納めることも出来たのだろうが、どうみてもそれだけでわざわざ呼び出すことはしないだろうと考えると、天谷吏人はやはりその先を見据えて言っているのだろうか。と佐治は考え、困惑した。
しかし佐治は、その言葉が何故か唐突だとは思わなかった。
どこか前に、吏人に同じような視線を感じたような。はっきりと言われたかはわからないが、同じような熱を受けたような―――。
まるでパズルのピースの最後の一つがハマるように、佐治は記憶の奥底からその出来事を掬い出す。
―――視界に映る夏の夜の景色から、桜の色が脳裏を冒し、蘇る。佐治は、自らが卒業した時の市立帝条の卒業式を思い出していた。
「世話になったな、吏人! ……ま、あんたならオレからの言葉とか要らねえだろうと思うけどさ」
桜の木の下、卒業証書を小脇に抱えた佐治が目の前の人物に声をかける。その視線の先には、同じく制服を着た吏人が立っていた。
「……卒業おめでとうございます」
「お、おう。お前にしちゃ素直じゃねぇか。来年はお前らが頑張れよ」
いつもと違い、やけにまともな様子の吏人に佐治は少し動揺したが、便宜上とは言え最後だしなと吏人に激励の言葉を送った。
吏人はほんの少し頷き、再び佐治へと視線を向けた。
「……」
じっ、と吏人は伏し目がちに佐治を見つめた。普段はみせないその表情に、佐治はわけもわからず動揺し、視線を逸らす―――その視線が熱いような気もして、春先なのに心なしか体温も上がったような気がした。
「ん……? どうしたんだ?」
そう佐治が訊き返したが、吏人は黙りこくったままその場には不自然な沈黙が流れていた。
その間佐治には、吏人が何かを言い淀んでいるような素振りが見えたのだが、それが何なのかを理解しようとする前に吏人は口を噤んでしまった。
「何でもないです」
「あ、おい、待てよ!」
吏人はくるりと引き返し、校舎の方へと駆け出した。佐治が引き止めるように声を掛けたが、もうすでに吏人の姿はなく、校舎の雑踏へと消えていた。
「何だ……アイツ……?」
佐治はそう呟いた。結局吏人の言いたかったことはわからなかったが、その目の、その視線の熱は、やけに脳裏に焼き付いていた。
◇◇◇
「佐治さん?」
目の前から声がして、佐治は我に返った。生ぬるい気温と波の音が鼓膜に戻り、視界の先には吏人がこちらを不思議そうに眺めていた。
もう海に入るのは満足したのか、吏人は靴を片手に持ったまま裸足で車の前で若干気まずそうに立っている。
―――その足には、決して少なくない量の砂がこびりついていた。
「だからちゃんと拭けっていったろ!?」
「いけるとおもったんスけど……」
「波の勢いだけで取れるはずがねぇのよこれは!」
吏人の足についた精一杯の砂を落としてお互い車へと戻った。タオルなんてなく、佐治が服の裾で拭ったので腹のあたりに砂がついたままになってしまった。
なるべく砂が車内に入らないように払いながら、佐治は車の扉を閉めた。
「……で、お前は、あ、アレを言ってどうしたいんだ」
波の音も遮断され、車内の逃げ場のないこの空間で佐治は再び話を切り出した。隣に座る吏人の次に続く返答が想像できず、佐治はとぎれとぎれに少し声が上ずっていた。
「え、言いたかっただけですけど」
「はぁ!?」
だがそのあまりにも予想外な返答に、佐治は拍子抜けな声が出てしまった。
「お前、言いたいことだけ言って、飛行機乗ろうとしたのか!?」
「言い残したことがそれなので。あとは2秒で切りかえして帰ります」
平然と、おそらく本気でただ言うだけのつもりだったような吏人の態度に、佐治は「はぁ……」とため息をつきハンドルにもたれかかった。その息に、沸々と苛立ちと諦念の感情がこもる。
コイツはいつもそうだ。勝手に自分勝手に行動して、敵も味方も振り回していく。
オレたちを掻き乱して、そうして何も言わず飛び去っていく。
―――人の気も知らないで、なんで飄々としてやがるんだ。
佐治は眉間の皺を深くして、恨めしそうに吏人を見つめていた。
「お前は昔っからムカつくやつだと思ってたけど、まさかここまでとは思ってなかったわ」
佐治は「おい」と声をかけて、吏人の肩に触れた。気づいてこちらを振り向いた直後に強引に衣服を掴み、引き寄せる。
それに合わせて顔を近づけ、自らの唇を合わせた。
流れていく静寂。被っていた帽子がはらりと落ちて、後部座席でぬるくなった酎ハイがゴトンと転がる音だけが響いた。
相手の髪に指を這わせ、抵抗しないのを確認した上でもう少し深く抱き寄せる。吏人の肩口と胸元がぴたりとくっついて、そこからでもわかるほどに早くなっている心臓の高鳴りが聞こえてきた。
「ムカつくから、仕返しさせろ。このタコ」
「……!」
「意外そうな顔してんじゃねーよ」
唇を離し、顔を見やると先程までとは違い呆気に取られている吏人が見えたので、佐治は満足げに笑みをこぼした。
「飛行機は何時だ?」
掴んでいた手を離し、佐治は何事もなかったかのようにスマホで時刻を確認した。
「……明日の9時とかだった気が」
「そうか」
じゃあまだ時間あるな、と呟き佐治は運転席のシートの位置を調整し、吏人の方へ顔を向けた。
「もうちょっとだけ付き合えよ。好きな人の頼みなんだから、断らねえよな?」
その言葉を聞いて、下を向きながらもほんの微かに頷いた吏人を確認すると、佐治はおもいっきり車のエンジンをかけた。
首都高へ再び深夜のハイウェイを走る。
胸を灼いていた茫とした気持ちはもうすでに無く、代わりにじわりと熱がこもるのを感じていた。
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