カルテット 第二章

 

 陽春の候。
 私立ソニトゥス学園は群馬県にあるミッション系の私立高校である。現代では珍しい全寮制ながら自由な校風が人気で、県内外問わず様々な生徒が通う名門校だ。
 部活にも力を入れているところも多く、強豪部が多い。特に吹奏楽部はコンテスト常連校であり、県内では天籟高校に続いて有名である。
 放課後には、今日も元気な楽器の音が廊下越しに聞こえてくる。それを耳にしながらも曲山はカバンを手に取り、他の生徒より先に帰る準備をしていた。

「キョクリス先輩!」
 曲山が廊下を歩いていると、一年後輩である吹越聖月が声をかけてきた。
 彼女は曲山のことを―――先日の騒動《※ノベライズ二巻参照》で付いた独特のあだ名で呼びつつ、自らの楽器であるフルートのケースを抱えてこちらへと駆け寄った。
「聖月!」
「心配したよ~、最近ミーティングとかも先輩居ないからさぁ」
 曲山の快活そうな声色を聞いて、聖月は安心したように息を吐いた。
 それを聞いて、曲山はやれやれと呆れたように言葉を零す。
「居ないって言ったって、たった数日じゃないですか」
「あはは、確かに。……先生に聞いたよ。お母さん入院したんでしょ、大丈夫?」
 そう言葉にする彼女の表情には、少しだけ不安の色が浮かんでいた。
「症状は問題ないですよ。来月には戻れそうですし」
「あ、そうなんだ。良かった。いや……それも確かに心配だったけど」
「……? 何ですか?」
 少し言い淀む聖月に、曲山は首を傾げる。
 その様子に気付いたのか、彼女は口を尖らせながら言った。
「……入院するってなったらキョクリス先輩も忙しいし大変だろうなーって、心配してるんだけど」
「ああ……」
 そんなことかぁ、と心で思いつつも曲山は苦笑いを浮かべた。 
「まぁ確かにそこそこは。寮にも居てられないので、今家から通ってますからね」
 そう、現在曲山は入院のお見舞いや家のことなどがあるので、実家から直接学園へと通うことになっていた。―――ソニ学は全寮制の高校ではあるが、事情があれば寮を一時的に留守にし自宅から通うことが可能なのだ。
 ただ、そうなると通学時間がかかる関係上、放課後―――特に部活の時間がシビアになってしまうのは明白であった。
「そっかぁ、じゃあ放課後練とか厳しいよね」
 少し寂しそうに眉を寄せて、聖月は言葉を零す。
「んー、でも定演も終わりましたし今やることって新歓くらいじゃないですか? 確かに新入生の顔見れないのはちょっと残念ですが、来月には部活も出れますから大丈夫ですよ」
 そう笑顔を見せながら言う曲山に対し、聖月は安心したように少しだけ頬を緩ませた。
「わかった……今日もこのまま帰るの?」
「ええ。聖月は部活ですよね?」
「ううん、今日は休む。フルートの調子が悪いからメンテに行くんだ。だから途中まで一緒に帰ろ」

 正面玄関へと向かう階段を下りると、開けたロビーへ抜ける。
 来客用のロビーの中央付近には、白いグランドピアノが堂々と鎮座していた。窓から西日が差し込むその佇まいは、まさに私立学校の風格を感じさせる象徴的な存在だ。
「あ」
 普段はさほど気に留めないそのピアノだったが、それを見て思いついたように曲山が声を上げる。
―――思わず病院にあるピアノ、そしてその前に座る咲良の顔が脳裏に浮かび、ふと閃いたのだ。
 玄関までついてきていた聖月が、「どうかしたの?」と言いたげな表情でこちらを覗き込んだ。
「聖月、ピアノって弾けますか」
「え……? 小学校の頃はやってたけど、それがなに?」
 曲山の突然の質問に面食らいながらも、聖月は答えた。
「ホントですか! 今度教えてくださいよ」
「えっなに怖、突然ピアニストに目覚めたの?」
 目を輝かせながら、曲山は聖月を見つめる。
 それを不審そうに眺める彼女に対し、曲山は笑顔を見せながら答えた。
「聴かせてビックリさせたい人がいるんです」

 

 それから数日後、曲山が再び来院するタイミングがやってきた。
 病院の用事を終えた曲山がロビーを見渡すと、咲良は既にピアノの前に座っていた。
 咲良は曲山の姿を見つけると、パアア、と効果音がなりそうなほどに瞳が輝いた。
 そのまま早く早くと彼に急かされるがまま、曲山はピアノの前の鍵盤蓋を早々に開ける。
「今日もやってくれっか? お前、毎日は居ないから退屈でしょうがねェよ」
 そう嘆く咲良を横目に、曲山は待ってましたとばかりに頷いて自らのカバンを取り出した。
 曲山の鞄からは、聖月から借りた教本や楽譜が入っていた。―――楽器は違えど長年の演奏経験、そして聖月の(鬼)コーチのおかげもあり、練習自体は短時間であったが曲山のピアノの腕は飛躍的に上達していた。
「いいですよ! 今日は楽譜持ってきたので好きなのを―――」
「お前たち、何してるんだ」
 その瞬間、曲山の言葉を遮るように上方から声がした。二人が声がしたほうを見上げると―――川和がこちらを見下ろして立っていた。
 咲良はそれを見て「ありゃ、見つかっちゃったか」と苦笑いを浮かべた。
 川和はそんな彼の様子を見てため息を一つつき、まるで彼に言い聞かせるように次の言葉を零す。
「咲、いい加減こんなとこまで行くのは辞めろ」
「……」
 それを聞いて、咲良は黙り込んだ。
「お前だってわかってるだろ。もうピアノは……」
「……やめろよ、壬」
 咲良はその先の言葉を制止するように川和の名前を呼んだ。
 川和の言葉を聞いた途端に暗い表情を浮かべる咲良を見て、曲山は思わず二人に問いかけた。
「あの……管崎君は、もうピアノ弾けないんですか……?」
「……」
「ん? そうだよ」
 咲良が返答をした。
 あまりにもあっけなくその回答を示す咲良に、曲山は動揺する。
「そんな……」
「って勝手に医者が言ってるだけだけどさー。やんなっちゃうよなぁ」
 咲良はそう言いひらひらと手を振る代わりに、頭をふらふらと横に振ってみせた。
「まぁ、概ねそんなところだ。……勝手に言ってるだけというのには賛同できないが」
 川和も同調するように言った。
「だからオレは前からずっと辞めろって言っている。……お前に心残りがあるのは知っているのだがな」
 そう続ける川和の言葉を聞いてもなお、咲良の顔には張り付いたような笑みが浮かんでいた。
 震えた声で、曲山が聞き返す。
「……じゃあどうして」
「自分でもわかんねーんだよなこれが。染みついた感覚っていうか長年の未練っていうかさ。諦めたほうがいいのわかってんのに縋っちゃうこの感じ。まぁ人生の半分くらいコイツに掛けてたってのもあんのかね」
 そういって咲良は鍵盤部分に頬をすり寄せるようにそっと頭を預け、口角を上げながら伏し目がちに二人の方を向く。その表情には憂いと寂しさが入り混じっているように見えた。
「ええと……」
 かける声が見当たらず言葉尻が小さくなる曲山に対して―――川和は、黙ったまま何も答えなかった。

「……で、何で付いてくるんだ」
 病室へ帰ろうと車椅子を引いて廊下に出るなり、川和は呆れたような顔で背後を見やる。
 自らの後ろを、曲山がぴたりと付いてきていたからだ。
「まだ訊きたいことがあるんです」
 曲山はそう言って、意地でも離れまいとするかのように食い下がる―――その目は真剣そのものであった。
「散々言ってるだろ、お前にこれ以上言うことはない」
 川和はそれを一蹴するように言い捨て、階段の方へ足を向ける。
 しかしそれにも構わず曲山は再び口を開いた。
「川和君は……管崎君の何なんですか」
 その言葉に目の前の咲良が思わず吹き出して、にやついた顔で後ろを覗き込んだ。
「……何でそんなことを」
 まさか自分のこととは思わず若干の動揺が隠せない川和は、つい訊き返してしまった。
「いや、ボクこないだも会いましたし、もしかしてここに毎日お見舞いに行ってるんですか?」
「……たまたまだ」
「嘘つけェ、お前毎日来てんじゃん」
「……」
 咲良からの横入りの言葉に思わず川和は黙り込む。その様子を見て咲良は再び笑いをこらえていた。
 それを一瞥しつつ、川和はため息をつきながら答える。
「……別に、友人だからって理由じゃ駄目なのか?」
 曲山はその言葉に、少し考えながら答えた。
「うーん、駄目ではありませんが、不思議なんです。嘘ではないんでしょうけれども、それだけとも思えません。……二人の間には、何があるんですか?」
 そう言い曲山は、じっと川和の顔を見つめた。
 篝火のように静かだが確かな熱を帯びた瞳が、真っ直ぐにこちらへ向けられている。
 無垢で何も知らない、川和にとって曲山が歯牙にもかけない存在であるのは確かだが、その発言はどこか核心をついているようにも聞こえて、川和は眉を顰めた。
 しばらく沈黙が続いた後、ふうと一つため息をついて川和は淀みなく答えた。
「残念ながらお前の考察は見当違い、的外れもいいところだ」
 川和はそのまま視線を落とすと、冷たく言い放った。
「オレたちの関係は到底理解は出来ないだろう、そのままだとな」
 そう言葉を告げると、曲山は「そ、そうですか……」と狼狽えながらも、少し残念そうに肩を落とした。

 

「そんなにアイツのこと邪険に使わんでもいいんでねーの?」
 病室へ戻ってきて、曲山が退出した後で咲良がふと口を挟んだ。
「……何のことだ」
「とぼけちゃってェ、晴海くんだよ晴海くん。せっかく縁があったんだから、そんな突っぱねるような態度しなくてもさぁ」
「……」
「晴海くんだって、悪気があって聞いたんじゃないんだからさぁ」
 そう言ってベッドへと身体を預ける咲良を支えながら、川和はまた一つ大きくため息をついた。
「……オレは、ただ……」
 そう言いかけたところで、ガラリと病室の扉が開く音がしたので―――川和は続きの言葉を言うことが出来なかった。

「咲、壬、来たよ」
 開かれた扉の先には黒髪の二人の少女―――管崎舞と星合美子の姿があった。
 川和と同じ色のブレザーに身を包み、舞は少し大きめの鞄を抱えている。
「おー、遅かったじゃねェか」
 二人の姿を確認した咲良が、声色を弾ませた。
「学校の後一回家に寄ってたからね。あ、ここにお菓子と着替え置いとくね」
「さんきゅー」
 咲良の妹である舞が菓子の入った袋をテーブルに置いて、病室の棚の衣類を入れ替える作業を始めた。
「手伝うよ」と言いながら、隣の美子も舞の手伝いをし始めた。
 置かれた菓子の袋を眺めながら、咲良が隣の川和へ話しかける。
「壬、そこのチョコ食わせてくれ」
「……怒られても知らないぞ」
「いーのいーの。メシに関しては制限ねーし」
 そう言って口を開けて待つ咲良に、川和は小粒のチョコレートを放り込んだ。

「あ、咲ちゃん、はいコレ」
 菓子を頬張っている咲良を見守っていた舞が、こなれた手つきで鞄から何かを取り出した。
 それまで朗らかな表情だった咲良がそれを見て、少し神妙な顔つきになる。
「あー、あっちに置いといて」
「読まないの?」
「……もういいよ、大体中身わかってるし」
 舞は不思議そうに首を傾げていたが、すぐに納得したのか再び手を動かした。
「……」
 川和は手を止め、無言のまま舞の手元を見やった。
―――そこにはもう何度見たかわからない、桜の便箋が握られていた。

 

 いつだったか、川和は金井淵と或る文具屋で鉢合わせをしたことがある。
 古びた本屋と併設してあったそこは人通りも少なく、近所の学生などが立ち寄るには似つかわしくない場所であった。
 放課後、連れ立って帰路につく時とは違う友の姿に川和は面食らったが、そのとき金井淵が手にしていたのは淡い桜の便箋だった―――ということを川和は憶えている。
「何だ、お前か」
 川和の姿に気がついた金井淵は少し瞳孔を丸くしたが、それ以上は特に表情を変えずに言葉を零した。
 金井淵は手にしていた便箋を売り場へ戻し、他の場所へと踵を返す。
「それ、買わないのか」
「別に」
 川和が便箋を指差して尋ねると、金井淵は素っ気無く答えてそっぽを向いてしまった。
 そのまま何も言わずにその場を立ち去ってしまうのだろうかと思ったのだが、彼はそのままそこに佇み、じっと何かを待つように立ち尽くしていた。
 おそらく、自分がこの場を離れるのを待っているのだろうか。そう川和は思った。
「……なあ、さっきの便箋……」
「うるさいな、だから買わないって言ってんだろ」
 金井淵は苛立ちの混じる声で、川和の先の言葉を遮った。
 川和は思わず閉口したが、―――お前の強情なところは相変わらずだな。と呆れたように一人呟いていた。
 その便箋を、一体誰に使うかなんてお互いわかりきってるというのに。

―――ああ、なんだかまどろっこしい。
 川和は先ほどの便箋を手に取ると、金井淵が反応するより先にレジへと向かった。
 その様子を見て彼は気が付いたように慌ててこちらへと駆け寄ったが、もう遅い。
「ホラ」
 そうして会計を終えた紙袋を、金井淵へそのまま手渡した。
「別に……お前に買ってもらう義理は無かったんだが」
 金井淵は不服そうに言葉を濁したが、そのまま退かない川和にしびれをきらして紙袋を受け取った。
「そのまま辛気臭い顔で待たれるよりマシだ。早く仕舞え」
 川和はぶっきらぼうに言い放った。
「……礼はする。じゃあな」
 金井淵は便箋を鞄の中へ仕舞い、足早に立ち去ろうとした。
 しかし川和がそのまま表情を変えずにじっと自分を見つめていたので、金井淵の足が止まる。
「……」
「何だ?」
 疑問に思う金井淵に対し、川和はようやく重い口を開いた。
「……いや、何でもないよ。どうせオレが止めたって、聞かないのはわかってるからな」
 その言葉を聞くや否や金井淵は軽く眉間に皺を寄せ、何も言わず店の外へと出ていった。

―――どいつもこいつも、諦めが悪すぎる。
 出ていく背中を見つめながら、川和は心の中で小さく舌打ちをした。

 

 舞と美子が帰ったあとも川和は病室を出ることはなく、そうこうしているうちに辺りはすっかり暗くなっていた。
 咲良が看護師に連れられトイレへと向かい、一人になった隙に川和は病室の引き出しを静かに開けた。
 そこには入院手続き等の書類のほかに、様々な手紙が雑多に入っている。
―――川和はその場所を無遠慮に漁り始めた。
「なーにしてんだ」
 その声に、川和は心臓が跳ねる思いがする。
 いつのまにか戻ってきていた咲良に、背後から声をかけられていた。
「……いや、そろそろチェストの中も増えてきただろうから」
 川和は振り向かずに引き出しを閉め、言い訳じみた言葉を漏らす。―――正直まずいことをしてしまった自覚はあったが、今更取り繕えない。
 咲良はこちらを振り返らない川和の背中を眺めながら、窘めるように言葉を零した。
「……アレだろ? もう読んでないだろうと踏んで涼の手紙を捨てようとしてんだろ? 確かにそこはもうじき一杯になるだろうが……でも、そこは弄るなって毎回言ってるだろ?」
「……」
―――知っている。何なら数百回言われているその言葉を川和は脳内で反芻する。何回も言われているはずなのに、咲良の咎めるような口調に川和は心臓が冷えた感覚がした。
 そうやって微動だにしない川和の背中を見つめ、咲良は呆れたように車椅子の背もたれに身を委ねながら言った。
「……っつても、オレにはお前を止める手段なんてないんだけどさ、ハハ」
 そう自嘲気味に笑う咲良を見て、川和はようやく振り返って言った。
「なんかその言い方だと、オレが好き勝手にしてるみたいじゃないか。オレはお前のためになぁ……」
「別に間違っちゃいねーだろ? な?」
 咲良はそう言ってじっと川和を見つめて、静かに首を傾げる。
 納得しないような表情をする川和に対し、沈黙を破るように咲良が再び言葉を続けた。
「なぁ、別に……お前だって毎日ここ来なくたっていいんだぜ」
「……」
「ここ、お前の学校からそんな近いとこじゃないしさ……二年になったんだろ? 部活とか、後輩とかさ、見なきゃいけねェだろ?」
「それは……」
「だったらさ、そんな……あ、いや、もちろん来てくれるのは嬉しいけどな」
 咲良は最後に付け足した言葉に対し、にこりと歯を見せるように笑う。
 しかしすぐに口角を戻し、続ける。
「献身の姿勢は咎めるもんじゃねェ。けど、理由はなんだ?」
 理由を問う言葉を聞きながらも、川和は咲良のその表情から目を逸らすことが出来なかった。
 咲良は―――逃げるなよ。と言わんばかりにじっと川和を見つめていた。
 お互い視線を外すことも出来ずに、見つめ合う二人の間に風が通る。窓の外では夜空の中で桜の花びらが舞っていた。
 沈黙を破るように咲良がようやく口を開く。
「友人だから?」
 川和は軽く首を振る。
「可哀そうだから?」
 今度は素早く首を振る。
「それとも、金井淵(アイツ)の代わりだから?」
 その言葉で、川和は思わず表情が固まる。
 一瞬ぴくりと動いた肩を見逃さず、咲良は眉を寄せながら頬を緩ませた。
「ほら反応した。オレにはなんでもわかんだよ」
「……よく口の回る患者だ」
 ため息交じりの言葉を聞いて咲良は再び笑みを浮かべたが、彼がどこか寂しげに見えたのは気のせいではないはずだ。と川和は思った。
 川和は考え込むように立ち尽くし、やがて静かに口を開いた。
「だが……違うな」
「そうなのか?」
 少し意外そうな表情を浮かべる咲良に対し、川和は言葉を続けた。
「オレは……アイツのことを悪いだなんて思っていないし、第一アイツがもし罪の意識を抱えているというなら、それはアイツ自身の物だ。それを肩代わりしようだなんて考えるほど、オレは優しくもないし傲慢でもない」
「まぁ、そりゃそうか」
 川和は相槌を打ちながらその言葉を聞いている咲良の前に座り、言葉を続ける。
「オレがここへ足を運んでいるのは、同情でも、誰かの代わりの罪滅ぼしでも、ない。……ただ」
 顔を覗き込む咲良に目を合わせ、川和はゆっくりと瞬きをした。

「……お前が、泣いてたから」

「へっ!? アレ!? そんなことあったっけ……?」
 予想外の返答だったのか咲良は素っ頓狂な声を上げ、ぱちくりと瞳の瞬きを繰り返す。
 その反応を見て、川和は思わず苦笑いを浮かべた。
「まぁ、覚えてなくても無理はない。……だからこの話はこれで終わりだ」
 そう言って川和は立ち上がり、手を振りながらも後ろを振り返らずに病室をあとにした。
「……このオレが、泣く……?」
 一人残された咲良は、川和の出て行った扉を見つめながらぼそりと呟いていた。

 

 木の葉が風で騒めく音で、川和壬獅郎は目を開けた。
 視界に入ったのは生命溢れる緑の葉ではなく、淡く紅をまとった桜の花々であった。
 うららかな桜の花は太陽の光を透かして、薄紅の繊細な影を生み出している。 
―――どこか、悍ましいほどに。
 思わず己の身体を起こす。固い無機質なアスファルトではなく、柔らかい地面の感触が背中を容赦なく汚していく。
 ここは森の中か、はたまたどこかの山の中腹だろうか。どこまで視界を凝らせても、周りには薄紅に染まる木しか見えない。
 一面の桜の木々は、枝を、地面を、空を聴色に染めあげ、まるでこの世のものではないほどに、美しい。
 ただ、―――己にとって桜の木は、今一番見たくない景色だった。

「お前たち、桜の音って知ってるか?」
 盟友の声が脳内に響き渡る。幾度となく聞いた、あの声。
―――そうだ、あの時彼が感じていた「桜の音」を再び感じるために、オレと美子と、舞、そして涼は一同に介して、合奏を続けてきたんだ―――。
 だが……もう二度と「桜の音」を感じることは叶わない。
 心の叫びは虚しく谺しても、もう響くことなんてないんだと。

 そしてあの日、時を同じくして決めたはずだった。
 皆を、大切な人たちを、友として見届ける。ということも。
 もう出すことのできない音に苦悩することなく、皆が新たに飛び立つための止まり木になろうと。
 だけど、日に日に見届けるにつれ、彼の輪郭が明らかになるにつれ、実感する。
 アイツは、咲良は、
 ……なんにも諦めちゃいなかったんだ。

―――だったら、消えろ。
 叶わぬ夢を追いかけ続けるくらいなら、目の前から消えてくれ!

 いつのまにか自らの手に持っていたチェーンソーを握りしめ、スイッチを入れる。
 詰まることもなくブォンという空気を切り裂く重厚な音が鳴り響く。その刃先はまっすぐに桜の木に向かっていた。
 静かなこの場所には不釣り合いな激しい音を立てて、桜の木に容赦なく刃を立てる。
―――その瞬間、目を疑うような出来事が起きた。
 ズドン、とあまりにもあっさりと桜の木は切り倒され、横たわる。―――その幹の大きく開いた傷口から、鮮血のような飛沫が噴き出した。
 それは続々と地面に降り注ぎ、土色だった地面を真っ赤な絨毯へと変えていく。
 思わず驚いて、手元のチェーンソーを手放した。
 ドスンという重々しい落下音を響かせて地面へと落ちたそれは―――未だ生きて、 意志を持っているかのように動き続けていた。

 夢の中と同じような、機械の定期的な駆動音で思わず目を覚ます。
 近所で工事中なのだろうか。普段ならただただ迷惑だが、今日だけはなぜかその音に救われたような気がした。
 びっしょりとかいた汗を拭い、その液体が赤に染まっていないかを認識しながら、静かに息を整える。
 締め切ったカーテンを開けると、窓越しに桜の木がこちらを覗いているように見えた。

―――あの日から三回目の春。川和壬獅郎は、今日も管崎咲良を殺した。

 

三章へ続く

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