早くどうにかしてください!

 

 最近、「友達」という単語を検索するのが癖になった。
「友達の作り方」「友達の定義」「友達の抜け出し方」
「友達」から「恋人」へと「成る方法」……。
 その対象である金井淵君自身は、ボクとの関係を友達のまま平行線であることを望んでいる。
 だけど、はたしてそれでいいのだろうか。
 関係性が終わるくらいなら、と彼の提案を受けることにしたが、彼への想いは日に日に肥大していくばかりで、ボクはたまに張り裂けそうな衝動に駆られる。
 明日にでも、また間違いを犯してしまいそうなほどに。
……と、ここまで思い返してみたけれど、難しいことは考えてもわからないな。
 でもひとまずは、嫌われてないことに安堵するだけでいいのかなって思うけどね。

『この世は一つの舞台だ。
 すべての男も女も役者にすぎない。
 それぞれ舞台に登場しては、消えていく。
 人はその時々にいろいろな役を演じるのだ』

「いやー、今日の舞台素晴らしかったですね!」
 劇場の近くの喫茶店で、ボクは目の前の金井淵君に話しかけた。
 初めは浮かれてばかりだった「友人としての付き合い」も、今ではすっかりいつも通りになっていた。
 今日は金井淵君と近所の劇場へ舞台を見に行った。
 田園が舞台の恋慕を描いた喜劇ミュージカルで、昔から有名な劇作品のリメイクだ。
「……そうか? 最後とかご都合にもほどがあるし、ちょっと言い回しが遠回りすぎてさっぱりだったが……」
 金井淵君が眉を顰めて呟いた。
「いや、そんなこと言いながら今パンフレットしっかり読んでるじゃないですか! しかもボクが買ったやつ!」
「それはまあ、往年の名作だし……」
 彼はバツの悪そうな顔をして視線を逸らした。
「あとでボクにも読ませてくださいね!」
「……あと三ページだからもう少し待ってくれ」
 そうして金井淵君は全ページしっかりと熟読してから、なおも少し不満そうにパンフレットを返していた。
 じゃあ君のぶんも買えば良かったのに。という気持ちを飲み込んで、ボクはそれを受け取った。
―――でもだんだん分かるようになってきた。金井淵君が強引にけなす所を探している時は、最高に楽しんでいる時だ。
 ああは言いつつも本当はめちゃくちゃ前のめりで見てたに違いない。
「それに演奏部分もすごかったですね。オーケストラはあんな配置になるんですね!」
 ボクは鼻息を荒くして言った。
 その公演は音響に生の演奏を使用しており、重厚な音にボクは圧倒されてしまったのだ。
「まぁな」
 金井淵君もその件に関しては同じ考えだったらしく、同調したように頷いた。
「後ろのパイプオルガンがすごい立派で、あれ弾いてみたいなぁ」
「……弾けねェくせによく言うよ」
 興奮しっぱなしのボクに、金井淵君が少し嘲笑するように微笑んだ。
 その声色は他の人には軽口のように聞こえるだろうが、最近は自分の冗談にも少し微笑んでくれるので、ボクはなんだか嬉しい。

「お待たせしました」
 喫茶店のウェイトレスさんが注文したパスタとコーヒーを持ってきてくれた。
 置かれたパスタにフォークを乗せながら、ボクは続ける。
「それに内容も良かったですよ! 特に男装しているロザリンドもといガニメデが森の中で……」
「曲山」
 そうして公演の内容を意気揚々と話そうとしたときに、ふと金井淵君に名前を呼ばれてボクは顔を上げた。
「なんですか?」
「オレに恋愛ものを見せてどういうつもりなんだ?」
「えっ……?」
 先ほどとは違う鋭い目線に、ボクはすこしたじろいた。
「ただ単にオケがあるからって理由でもなさそうだし」
……確かに恋愛ものを見せることで少しでも関係を進展させようとした打算はあったけれど、まさか見抜かれるとは。
 いや……当然かもしれない。
 舞台に興味があるならまだしも、興味もないはずのジャンルを見せられれば疑問に思うだろう。
「……いや、そんな、普通ですよ。ただたまたまここで公演してたから観に行きたいなー、でも一人じゃ……ってとこですよ」
「……ふーん」
「いやホントですよ!」
 咄嗟に言い訳をするボクに、金井淵君はじーっと疑いの目を向ける。
 その視線すら気恥ずかしくて、ボクは目をそらすように目の前のパスタを一口頬張った。
「……フン」
 そのうち金井淵君は、やがて諦めたように視線を戻した。
「……まあ、隠しても仕方ないですし、言いますけども」
「なんだ、言うのか」
 最初は逸らそうとしたけど、やっぱり言おうと決意してボクは残っていたコーヒーを飲み干して一息ついてから口を開いた。
「金井淵君、最近忘れてないかなーって」

「何がだ」
「ボクが金井淵君を好きだってこと」
 釘を刺すようにそう指摘すると、金井淵君はピタリと動きが止まる。
 そのまま下を向いたまま、若干ばつが悪そうにくるくると目の前のパスタを回し始めた。
「いまは……その話はいいだろ」
 誤魔化すようにボクからパスタに視線を逃しながら、彼はぼそりと呟く。
 金井淵君から振った話なのに……とボクは思ったけど、そもそも自分が発端の話なので、指摘するのはやめた。
「でもなんかボクの意見としては、ちゃんと関係を線引したいなって思ってて」
 ボクは持っていたフォークを置いて、続ける。
 これ以上うやむやな関係は、嫌なのだ。それはわかっている。
―――だけど、これはボク自身が言い出せないのも原因の一つではあるので悩むところだ。
 この間言っていた『少しでも変な告白をしたら速攻振ってやる』という彼の考えに―――今のところ告白して彼がオッケーというビジョンが全く見えないのだ。
「……」
 金井淵君は、黙ったままパスタを食べている。
 その表情は、いつもより険しい気がしてボクは慌てて口を紡ぐ。
「ま……まあ、そうですね。覚えててくれたことは分かったので、今はそれだけで十分です」
 彼の鋭い視線を浴びながら、水を一口飲む。
 ボクらは互いに押し黙ったまま、しばらく気まずい時間が過ぎていく。
 たぶん今選べる言葉も、このうやむやな関係も、ボクにできることはこれが精一杯なんだろう。

 

 ある日の昼下がりの喫茶店、店内のとあるテーブルの上で黄色い声が響く。
「あ、ねえねえこのグラマーの新作ネイルよくない?」
「いいねーかわいい! めぐみん似合いそうだねー」
「いいなぁ、あたしまだ高校だからネイルできなくて……」
「ええーそう? あたしベースとかトップだけとかしてたけどなー、モコちゃんもやろうよ!」
「あ、あの……」
 目の前できゃいきゃいとはしゃいでいる女子たちを目にしながら、ボクは言葉を零す。

「なんでボクここにいるんですか?」

―――初めは覚えている。
 ボクは以前「リンギン・ガーデン」と言う即席バンドを組んでいたのだが、久しぶりに集まって演奏をしないかと頼まれたので、再びメンバーを集めて演奏をしたのだ。
 もちろん演奏は大盛況だったのだが、終わった後帰ろうとしたその瞬間。
「ちょっとツラかしなさいよ」
 と、クラリネット担当の邑楽さんにボクは腕を掴まれてしまい。
 何故か三人に連れられるがまま、この喫茶店に来てしまったのだ。

 その三人の女の子たち―――邑楽さん、吹越さん、滝沢さんが一斉にこちらを見て、口を開いた。
「しょーがないじゃない! ほかの男性陣ライブ終わったらさっさと帰っちゃったし……せ、せっかく予約してたのに席開けるのもなーって感じだし」
「あー、神峰君のために取ってたのにね」
「ち、ちちち違うわよ!!」
 邑楽さんはそう言われ真っ赤になって吹越さんに向かって反論した。
 当の神峰君は、刻阪君に連れられてライブ後に早々に帰っていたのを見ていたので、ボクは、ああ……と少し納得した。
 まぁ、言うなればボクは人数合わせなのだ。
「お待たせしましたー。おすすめパンケーキです」
 エプロン姿のウェイトレスさんがテーブルに料理を運んでくる。
「あ、きたきた。やっぱ一周回って流行はこれよね。クリームこんくらいでいい?」
 邑楽さんは意気揚々とパンケーキを取り分け始めた。
 目の前に大量に盛られたクリームが、胸の高さにまでそびえ立っている。
「ど、どうも……なんかボクだけ場違いじゃないですか?」
「わー、美味しい~」「最高です~」
「聞いてますか⁉」
 一気に注目がパンケーキに移り完全に空気と化したボクを、吹越さんがまぁまぁと慰めるように肩を叩く。
「まぁせっかくだし、キョクリス君も水入らずの女子会楽しもーよ! ネイル塗る?」
「塗りません! ……ボクは女子じゃないんですが女子会って一体……」
 相変わらずマイペースな吹越さんのペースに飲まれないように突っ込んだが、彼女は笑顔のまま首を傾げていた。
「キョクリス君? 別に場違いじゃないと思うけど?」
「どんな根拠があって言えるんですかそれ……」
 吹越さんはそのままニコニコしながら、何食わぬ顔で言った。
「だって、みんな恋してんでしょ?」
「は……?」
 にこやかにパンケーキを食べていた二人も、吹越さんのほうを見る。
「恋っていうか、カタオモイ?」
 その発言で、賑やかだったテーブルが一瞬のうちに凍りついた。

―――そして、火山のように噴火した。
「はああああ⁉ アイツのことなんて! 別に好きだなんて思ってね―し!!」
 先程まで和気藹々としていた邑楽さんが堰を切ったようにまくし立て、隣の滝沢さんは(バレてたのか……)とでも言うように黙ったまま顔を真っ赤にしていた。
 当の吹越さんは平然とパンケーキを頰張っている。
 邑楽さんは真っ赤な顔で、彼女をビシッと指差した。
「大体ね! そういうあんたはどうなのよーカスミン!!」
 指摘された吹越さんは相変わらずの様子で答える。
「えっ、いやあわたしはみんな好きだし……フルートが恋人、とか?」
「そんなクソベタベタな言い訳騙されるか!」
「えーほんとだけどなー」
 吹越さんはケラケラと笑って返した。
「聖月やフルートより好きな人は居ないよ。メグとモコちゃんのことは好きだけど、付き合うほどじゃないかな。ごめんね」
「なんであたし達があんたに振られたみたいになってるのよ⁉」
 邑楽さんがツッコむと、彼女は愉快そうにしていた。

―――というか、バレてたのか。こちらも。
 ボクは騒いでいる二人をよそに、呆然としながらジュースを一口飲んだ。
「あの……お兄さんも好きな人いるんですか?」
 それを見ていた滝沢さんがおずおずと話しかけてきた。
「え? あ、まあそうですね……まだ友達ではあるんですが」
 そのボクの発言を聞いて、さっきまで喧嘩してた二人の表情がニヤニヤし始め一斉にこちらを向いた。
「そうそう、それが聞きたくてキミを誘ったんだよ!」
「えっ?」
「そうよ、あんた誘ったのカスミンからのタレコミなのよ」
 邑楽さんからの初耳の情報に、ボクは戸惑う。
 そうこうしていると吹越さんがテーブルに身を乗り出してボクに顔を寄せてきた。
「そう! 実はキミに好きな人が居るのは知ってたんだよね〜。ネタは上がってるんだぞ~! 恋人とのこと、お義姉さんに教えなさいよ!」
「ネタ……って何ですか⁉」
「本人から聞いたんだから、誤魔化したって無駄だよ!」
……本人⁉ 金井淵君が⁉ とボクは驚いて目を丸くした。
 しかし彼が自発的に話すわけがないし、一体どんな方法で聞き出したのだろう……おそらく吹越さんになにか弱みを握られてるんだ。きっとそうに違いない。
 邑楽さんも滝沢さんも期待しているようにこちらを見ている。もう恋バナからは逃れられないのか……とボクは諦めたように口を開いた。
「ま、まさに仰るとおりで……」
「やったー! ヒューヒュー!」
 ボクがそう言うと、吹越さんは嬉しそうに囃し立てた。
―――いまここで、それはあなた達も良く知っている人ですよと言ってしまおうかなと思ったけど、なんかちょっと気恥ずかしくて言えなかった。
「もうバレてるならしょうがないですね……ホントは告白したいんですが、半端なこと言ってはいけない気がして言えなくて……あと何考えてるかわかんないとこもあって……無口だし」
「ほーん、クール系なのね」
「クールビューティーなお姉さんですか……!」
「お姉さんではないですけど……」
 頷いている邑楽さんと滝沢さんに対し、吹越さんは少し意外そうに目を丸くして口元に手を当てた。
「へえぇ意外! キミの前だとそんな感じになっちゃうんだね、聖月って」
「えっ?」
「……えっ?」
 しばし沈黙が続いた。あれ、もしかして、ボクも吹越さんもとんでもない誤解を……?
 ボクはおずおずと声をかける。
「あ、あの……ボクが気になってる人って、聖月じゃないですよ……?」
「……⁉」
 それを聞いた吹越さんは笑顔が消え、そのままフリーズしたように固まった。
 ご、誤解だったー⁉ あ、危なかった……。一歩間違えればボクの方から先に金井淵君の名前を出すところだった。もし言ってしまえば大変なことに……。
「あっ、そうなんだ……ごめん勘違いしてた……わたしはてっきり聖月のことかと……」
 吹越さんが震えた声で謝罪すると、目に涙を浮かべて唐突にさめざめと泣き出した。
 それを見てボクは慌てて言葉を返す。
「あー! いや、聖月とは普通に友達ですすみません! というか泣かないでください!」
 こう答えると吹越さんは更に号泣してしまった。
「うわ~~ん! 聖月とは遊びだったんだあぁぁ!」
「あーあキョクリス君女の子泣かしたー」
 その様子を見ていた邑楽さんが、ボクを揶揄うように指さしてきた。
「ごめんなさい! 勘違いしてたとは……って、遊びってなんですか! そもそもそういうのでは……ああもう!」
 泣き喚きながら顔を両手で覆う吹越さんに、ボクは必死に弁明する。
 その騒ぎに気づいた周りのお客さんから、一斉にボクたち三人に視線が注がれる。
 まずい……このままだとお店に迷惑が……!

「あ、あのっ、とりあえず落ち着いて……」
 ボクが手元のハンカチを手渡そうとすると、彼女はスッと顔を上げた。
「まあいいか、切り替えよ」
「切り替え早っ!」
 さっきまで泣いていたのが嘘のように戻った吹越さんを目のあたりにしてボクはたじろぐ。
 しかし、周囲の注目も元に戻ったのを見てボクは少しホッとした。
「……って、ちょっと待って下さい! 聖月はボクのことそんな風に思ってるんですか⁉」
「へっ? ……そう言われるとどうだろう? 聖月と話してて出てくる男の子の名前はキミくらいだから、てっきりそういう関係かと……」
「あんたそれだけであんな自信満々に……」
 邑楽さんは呆れたように溜め息を吐いた。
 しかしまあ、お姉さんに誤解されて大変だな……とボクは聖月にちょっとだけ同情した。
 ……今度ご飯でも奢ってあげよう。

「じゃ、じゃあ、聖月さんじゃないなら誰なんですか……?」
 滝沢さんが声を潜めて訊いてきた。
「……ごめんなさい、それに関してはトップシークレットでお願いします」
 悩んだ末にそう答えると、他の皆も神妙な面持ちで頷いた。
「そこまで厳重だと、案外あたしたちも知ってる人だったりして」
「いや、ホントに向こうにも迷惑がかかるんで、こればっかりは」
 食い下がろうとする邑楽さんを制止しながら、ボクは首を横に振った。
 すっかり落ち着いた吹越さんがジュースを一口飲み、改めて話を切り出す。
「……まぁでも、多少のすれ違いはあったけども、キョクリス君の意見はよーくわかった。クールなコで、本当に好かれてるのかわかんないんでしょ? それだったら……やることはひとつ!」
 吹越さんが椅子から立ち上がり、力強く拳を上げながら宣言した。

「題して、押してダメなら引いてみよ大作戦!」

「いや、引いたらそのままフェードアウトされちゃうと思いますけど……」
「大丈夫だよ! きっと引いたら向こうから会いたくなるに決まってるよ!」
「恋愛ケイケンないのによく言うよ……」

「はあ……」
 ボクは上着を脱ぎ、自宅のベッドへと潜り込んだ。
 あのあと三人にこってり女心の極意(男だけど)を教えられて、最後に邑楽さんの恋愛事情を根掘り葉掘り訊きまくって女子会は終わった。
 せっつかれて真っ赤に顔を火照らせる邑楽さんと、悪魔のように意地悪な吹越さんの顔が忘れられない。
『あたしだけとか不平等にもほどがあるわ! あんたたちも絶対経過報告するのよ!!』
 そう言われてノリでリンギン女性陣だけのライングループまで作られてしまった。そもそもボクは違う気がするんだけど……と思いながらも先ほどからひっきりなしに賑やかなメッセージが送られてくる。
「ふふ……」
 ボクはそれを眺めながら笑みがこぼれた。
 なんだかんだ、みんな恋に悩んでいるんだなぁ。
 そう思ったボクは、今日のお礼の連絡だけ済ませてベッドにスマホを置いた。

 その拍子にピラリと紙が一枚床に落ちた。思わずそれを拾い上げると、この間の劇公演の半券だった。
 置きっぱなしにしてたのかあ、と苦笑しながら券を引き出しに仕舞う。

 ———ふと、想い人である金井淵君の顔がよぎる。
 ふとした時に彼を思い出してしまうのは自然なことではあるのだが、それに準して沸き立つ衝動と欲求に一瞬ためらう———のだけれど、今日も駄目だった。
「ごめんね、金井淵君」
 謝りながらもボクは再びスマホを取り出した。

 慣れた手つきでスワイプを繰り返す。何回か捲るように遡ると、一枚の写真にたどり着く。
 二人で出かけた時の写真だ。写真をとられるのが苦手な金井淵君を、自撮りをするフリをしてこっそりと撮ったものだ。
 撮っているときはなんとも思わなかったけども、今は少しだけの背徳感とともに別の感情が押し寄せてくる。
 その端正な顔が、歪んでいるところがみたい。と。
「んっ……」
 ボクはおもむろにズボンを下ろして下半身を露わにする。スマホの画面に映った金井淵君の写真を見ながら、熱を持ちつつある自身を握り込んだ。
「っ……ん……はぁっ……」
 性急かつ唐突に行ったその行為だったが、自らの性器は刺激に敏感に反応してドクドクと脈打ち始める。そして画面の中の彼だけではなく、金井淵君の顔、声、反応、すべてが頭の中で構築され、都合よく再生される。
 初めて出会った日のこと、二人で出かけるようになった日のこと。
 あの日、酔っ払って雨の中ホテルへと担ぎ込まれたあのときも。
―――覚えてないって金井淵君には言ったけど、勢いでキスをしたあのときの表情が忘れられない。
 穢したい。
 表情一つ崩さない彼が淫らに乱れているところが見たい。
 無口な彼が情けない声をあげて目に涙を浮かべているところが見たい。
 その関係を……壊してしまいたい。
 ホントはいけないはずなのに、そのことを考えると体中が疼いて、吐息が熱くなるのを感じる。
 下腹部の奥からグツグツと熱が込み上げて、心も身体もおかしくなる。
 その顔も、声も、その身体もすべて、ボクのものだったらいいのにと思う。そして、金井淵君のそのすべてがボクに向いていて欲しいと思う。
「はぁ……ぁッ……んぅ……」
 先端から溢れ出てくる粘液を手に絡めて、淫猥な音を立てて上下に扱く。そうするとうちに溜まった熱がどんどんと大きくなってくる。
 それに準ずるように頭の中の金井淵君も表情を歪め、甘い疼きとともにともに興奮が高まってくる。

 すべてが、愛おしい。
「は……あぁッ……!!」
 身体が小さく震え、欲望は白いものとなって溢れ出した。慣れた手つきでそれをティッシュで拭き取りながら、ボクは乱れた呼吸を整えた。
―――邪な気持ちを持っていることへの罪悪感と、ほんの少しの背徳感。
 彼のことを想ってこんなことをしているだなんて知ったら、金井淵君はどんな顔をするんだろうか。
「はあ……」
 こんな関係、友達だなんて呼べるはずがない。

 友達と想い人の狭間で、金井淵君との関係を一体どうすればいいかわからないまま、悶々と悩んでいる間に朝が来てしまった。
「ふぁあ……」
 ボクは眠い目をこすりながら大学で講義に耳を傾けようとする。眠気を抑えるためにふと窓の外に視線を向けると、外はどんよりとした曇り空だ。
―――いくら悩んでいようと、日々は続くし、単位はとらなくちゃいけないのだ。
 だから、悩んでいてもしょうがないのだろうが、どうにも気もそぞろになってしまって勉強に集中できない。
「はあ……」
 ボクはまた一つ大きなため息を漏らした。
 そうこうしていると、キーンコーンと講義終了のチャイムが鳴って皆が一斉に片付け始めた。
 昼休みだ。ボクも一緒に廊下へと足を運んだ。

「曲山か? ちょうどよかった」
「あ、教授」
 廊下へと出ると、通りすがりにゼミの教授と出くわした。
 心なしか嬉しそうな表情をしているので、ボクは「どうしたんですか」と問いかけた。

「お前にいい話を持ってきたんだ」

「ボクに半年ほどの短期留学の話が来まして、フランスです」
 その翌日、講義の後に大学のラウンジに金井淵君を呼び出し、ボクは前日に教授から受けた話を切り出した。

「えらく急だな」
 金井淵君は沈黙を保ったまま、眉一つ動かさずに答える。
「いや、前から行きたいなと教授に話していたんですけど、まさかホントになるなんて」
「ふぅん」
 なんだか金井淵君の反応はそっけない。でもそれはいつものことだ。
 そしてその言葉に嘘は何一つない。教授にはボクの要望を言っていたし、ボク自身も海外へと向かうのは以前からの夢であった。
 しかし、どうにも気乗りしない理由も確かにあった。
「……でもなんか急だし、ちょっと今回の話断ろうと思ってて」
「なんでだ?」
 彼は相変わらず無表情のまま、首を傾げる。
 その様子にボクは少し言葉が詰まったが、やがて意を決してその理由を答えた。
「どうしたって慣れない生活になりますし、友達と……いや、金井淵君と会えなくなるのが嫌で」
 それを聞いた金井淵君はキョトンとした表情をした。
……ボクの想いを知っているはずだから、少しくらいは我儘言ってもいいじゃない。
 そう思って発した言葉だったが、眉を崩さず、いともあっさりと突き放すように金井淵君は次の言葉を放った。
「いや、行けばいいんじゃねェか? 滅多とないチャンスだろ。それとオレたちと多少会えなくなるくらいを天秤に掛けるのは人生のウェイトがおかしいだろ」
「……え?」
 ボクは耳を疑った。思わず言葉が出ず、黙ってしまう。
「……な、なんか、ないんですか。さ、さみしくなるな、とか」
「……別に」
「そんなぁ!」
 至極冷静に言い切った彼に対して、ボクはガックリと肩を落とした。
 それに対して、まるで追い打ちのように金井淵君が続ける。
「たった半年だろ? 高校の奴らは会う頻度なんてたかが知れてるのに別に変わったりしねェだろ? んで変わったら変わったでそれまでだ」
 確かにそうだ。そうなんだろうけども。変わったりはしないと言ってくれたのは嬉しいけども。
―――こういうとき、嘘でも寂しいって言うべきなんじゃないのか⁉
「……ひどい」
 沸々とした不満の想いが脳内に溢れ、気がついたら言葉が出ていた。 
 ボクは少し涙目になりながら、眉を顰めて金井淵君を睨みながら顔を上げる。
「金井淵君のいけず! わからずや! あーじゃあもう行きますからね! もう留学先でバッチバチに友達や……こ、恋人だって作ってきますからね! 知りませんよ!」
 そう吐き捨てるように言って、ボクは彼に背を向け、そのままずんずんと足を前に踏み出して行った。
「……オレだって知るか」
 その後ろで、金井淵君は無関心そうに肩をすくめていた。

―――この後なんだか会うのが気まずくなって、一度も会うこともないままボクは出国の日を迎えてしまった。
 もちろん空港に金井淵君が来てくれることもない。ボクは金井淵君から逃げるようにして留学へと向かうのだった。

 曲山が留学してから数ヶ月が経過した。
……なんでそんなことを思い返しているんだろう。と自分にツッコミを入れたが、理由は何故かわからない。
 アイツが出発する前に少し口論みたいなことになり、関係はそれっきりで終わったはずだ。
 うざったいほどのメッセージも、喧嘩した直後からパタリと来なくなった。
 清々はしている……だけど、なんだか最近心にぽっかりと穴が空いたような気持ちになってしまっていた。
 毎週のように誘われていた映画や演劇だって、今やチケットを持て余すようになっている。
 別にオレが気にすることではないが、たまにふと、アイツどうしてんのかなと思ってしばらく頭から離れない。
 でも多分、きっとアイツは今頃フランスで楽しくやっているだろうし、オレにこんなことを思われているとは露とも思ってないだろう。
「……一人で行くか」
 オレは最近その言葉が口癖になっていた。

「おー、涼君、だっけ? 今日ヒマ? オレたちこれから飲み会だけど行く?」
 大学の校門を出ようとしたところで、同じゼミの連中と出くわした。
 そいつは大学生特有のチャラそうなノリでこちらへと話しかける。……少なくとも、演劇や美術館で喜ぶようなやつではないことは確かだ。
 暇か暇じゃないかでいえば、暇なのは間違いないが、飲み会になど行く気にもなれないのでわざわざ行く必要もない。
「……いや、いい」
 オレは静かに申し出を断った。

「なんかノリわるいよねアイツー」
「無口だし、何考えてるかわかんないよな」
 背後でそう話す声を無視して聞き流しながら、オレは一人歩き出した。

 買い物がてらと言い訳しながら駅前をうろちょろとしていると、前に行った科学館が見えた。
「……そういえば結局、プラネタリウム行かなかったな」
 それをふと思い出すと頭から離れなくなってしまい、気付いたときには既に足を運んでいた。
 あの時行った科学館の、あの時行かなかったエリア。

『……そしてこちらの織姫星の近くには、こと座があります。その音色は天の川がせせらぎを止め、鳥もさえずりを忘れるほどに美しい音だったそうです―――』
 眠ってしまいそうなほどに優しい声色で、解説の声がこだまする。
 あんなに曲山が行きたがっていたプラネタリウムは、入ってしまえば存外あっけないものだった。
 退屈であくびが出そうになりながら、目の前の星々を眺める。

 アイツは、オレとここへきて何がしたかったのだろうか。
 アイツは、オレと何が見たかったのだろうか。
 アイツなら……。

『皆さんも、いつか大切な人に会えるといいですね』
 解説の声でふと我に返り、顔を顰める。
 ふと曲山のことを考えてしまっている自分に嫌気が差して、オレは静かに目を瞑った。

「……で、昨日はお前一人でプラネタリウムに行ってたってワケか」
 一連の話を聞いていた咲良が、あくびをしながら答えた。
「悪いかよ」
 オレはため息をつきながら文句を言う。
 高校を卒業してから咲良からちょこちょこ連絡が来てリハビリセンターへ会いに行くようにしていたのだが、最近は話す話題がないのか妙にオレのことについてせっつかれて鬱陶しい。
「どんな休日の過ごし方してんだよ……辛気臭」
「別にどう過ごそうがオレの勝手だろ」
 勝手に聞いて勝手にドン引いている咲良に呆れるが、口には出さずに心に留めておく。
「大体、誰か誘いたかったら誘えばいいだろ。オレとかさ?」
 意気揚々と話す咲良に対し、未だ車椅子なその姿をちらりと見て、呟く。
「……その状態でか」
「まーそうだけどさぁ。あ、これでもちょっとは良くなったんだぜ!」
 足をブラブラさせながら、咲良が笑う。
 「歩けるようになったら遊びに行こうな」と話す咲良を眺めながら、オレは再び話題を戻すように話しかけた。
「……なんか、めぐり合わせが悪いと言うか。どこ行っても喜ぶし、わりと自由に誘えるなって奴が居たんだが、ソイツの都合が悪くなっちまって。そっからちょっと誘えなくなっちまったんだ」
「ふむふむ、なるほどねえ」
 咲良はうんうんと頷きながら答える。
「他のやつには気後れを感じると言うか……何なら|プラネタリウム《アレ》すらも行きたがってたようなやつだからさ」
 ここまで話すと、咲良が途端にニヤニヤし始めた。
 オレが疑問に思っていると、咲良が自信満々に、自慢げに口を開いた。
「ズバリ、お前はソイツに恋をしているな?」
「……色ボケもここまでくると笑えるな。帰るぞ」
「わーーーー待って帰らないで!」
 即座に退散しようとしたオレを、咲良が慌てて引き留める。
 くだらない。どいつもこいつも色ボケか。と呆れるオレを咲良が宥めてくるように言葉を返す。
「や、オレさあ、そういう勘だけは鋭いってよく言われるから信じなって! ……実際、ソイツ以外の人を誘うの気後れしちゃうんだろ?」
「……それは確かにそう言ったが、それで恋なんて……」
「いや! それはもう、恋してるみたいなモンだよ。オレが保証する!」
 あまりにも力強く主張する咲良に対し、動揺して瞳孔を丸くする。

「……そういう、ものなのか?」
 ニコニコする咲良を尻目に、オレは一人呟いていた。

 ✈

『皆様、当機は間もなく着陸態勢に入ります。シートベルトをお締めください。Ladies and gentlemen, we are ……』
 十五時間に及ぶフライトも終わりを告げようとしている。もうすぐ半年ぶりの日本だ。
 フライトアテンダントに促されるままシートベルトを締めると、シートがゆっくりと後ろに倒れた。そのうちに非常灯だけが光る夜の滑走路が目に飛び込んでくる。
 窓の外、眼下に見える街の明かりはやけに小さく、まるでミニチュアのようだ。
 じっと窓の外を眺めていると、手が滑って先ほど見ていたスマホを落としてしまった。
「おっとと」
 慌てて拾うと、先週やりとりしていたメッセージアプリの画面が液晶に表示された。

金『久しぶりだな。いつ帰ってくるんだ』
曲〈金井淵君だ! 久しぶりですね。……来週、くらいですかね〉
金『迎えに行く、何時着のどこだ』
曲〈え、ええっ⁉ どうしたの、天変地異……?〉
金『いいから情報を教えろ』
曲〈来週土曜の便ですが……両親が車だすのでその日はそのまま帰っちゃいますよ?〉
金『じゃあ隙見て抜け出せ。ロビーで待ってる』
曲〈んなムチャな!〉

 やりとりを読み返していると、通知が光って新たなメッセージがポップアップされた。
『今日だろ? 待ってるから』
 まるで見ていたようなタイミングだ。ボクは思わず笑みを浮かべた。
『ありがとう。絶対いくから待ってて』
 ボクはそう返信して、スマホを機内モードにした。
 何時の便かハッキリ伝えてないのに……もしかして今日ずっと空港に居るんだろうか。
―――そもそもどこの空港かすら言ってないじゃないか。日本で国際線と言ったら想像はつくだろうけど、別の空港だったらどうするつもりだったんだろう。
 そんな事を考えながらも、飛行機はまっすぐに雲を突き抜けてゆっくりと下降していく。

 季節は夏。気温は留学先と同じくらいなのに、その蒸し暑さに一気に身体から汗が吹き出す。空港に降り立つと、懐かしさとともにどこか寂しさを覚えた。ボクが日本を発ったのはちょうど半年前のことで、それでもやっぱり見慣れた東京はほっとする光景だった。
 入国手続きを終え、到着ロビーに出る。自動ドアが開いた瞬間、ムワッとした熱気が肌にまとわりついてきて思わず顔をしかめた。
「やっぱり東京は暑いな……」
 日差しの強さにに思わずため息が出る。
 待合室へと向かうと、同じように到着した人を待っている人たちで溢れていた。
「晴海! こっちよ~!」
 空港で待っていた母親が大きく手を振って、ボクを呼ぶ。
 ボクも同じように手を振って答えた。
「ただいま~!」

 友達が待ってると理由を話しながら、ボクは家族と帰宅することを一旦止めて空港のロビーを一人で歩いていた。
 沢山の人の中から、かき分けるようにその姿を探す。
―――一つ離れたロビーの向こうに、見慣れた栗色の髪が見えた。
「……久しぶり」
 ボクがそう話しかけると、金井淵君はそれに気がついたように待合室の椅子から立ち上がる。
 少しだけ気まずそうに目線を逸らしながら、話し始めた。
「ライン、あんま返してくれなかったな」
「……なんか気まずくて」
 ボクは照れたように笑って返した。
「あんときは、すまなかったな」
「いや、もう、いいですよ。こちらこそごめんなさい」
 思わず謝罪をすると、金井淵君も申し訳無さそうに頭を掻いた。
「海外生活……どうだったよ」
 金井淵君が話を切り出した。
 ボクは彼が怒っていないことに安堵しながら、頬を緩ませながら答えた。
「ああそれは楽しかったですよ! 為になりましたし、ボクの演奏を喜んでくれる人もいました……大変でしたけど、いろんなことがあってこの半年、充実してました」
 ボクはにこやかに話す。その間彼は黙って聞いていた。
「できれば、もう半年くらい居たいくら、い……」
 話を言い終わるまえに、金井淵君がボクの目の前まで近づいたと思うと―――突然彼に抱きしめられた。
「え……あ……」
 ボクはあまりのことに動揺して続きの言葉が出なかった。
「もう半年とか、言うな」
「……えっ」
「お前が居なくて、寂しかった」
 彼はそう言うと、更に抱きしめる力を強めた。
 ボクは驚きと戸惑いで声が出なかった。
 まさか金井淵君がこんなことを言うなんて思わなかったし、なによりそんな素振りは見せていなかったからだ。
「……お前と離れ離れになって、連絡も取れないし、なによりオレはずっと寂しかった」
「……」
 黙ったままのボクに、彼はボクの体を抱きしめる腕の力をさらに強くした。
「独りで星を見たって、何も楽しくなかったから」
 その言葉の意味するところを理解しながらも、ボクは優しく金井淵君を抱きしめ返した。

 ガチャリと扉が開かれると、以前見た玄関が顔を出す。
「うわー、金井淵君の家、すごい久しぶりです」
 ボクが感嘆の声をあげると、金井淵君は不思議そうな声を上げた。
「前に来てたか?」
「来てましたよ! 雨宿りしたときとかに」
「そうだっけ?」
「忘れたんですか?」
 玄関で靴を脱ぎながら、そんな会話を交わす。
 日本を離れてからは、靴を脱ぐ習慣を忘れかけていたのですこしぎこちなくなる。
 玄関を抜け、荷物を運びながらボクははたと気がついたようにポンと手を叩く。
「あ、そうだ! ようやく届いたんですよ、現地の、おみや、げ……」
 ふと背中にぬくもりを感じて言葉が止まる。
 じっと背後を見やると、金井淵君に背後から抱きしめられているのに気がついた。
「……要らないんですか?」
「要る。なんなら全部欲しい」
「ぜ、全部って……ハハ……」
 誤魔化したような乾いた笑いが漏れるが、それとは裏腹に心臓がドキドキし始めて身体が熱くなっていた。彼の鼓動も背中越しに伝わってきて、ボクのものと合わさって共鳴する。
「なんか、ボクが日本出る前とは全然違うみたい。金井淵君」
「……悪いか?」
「いや悪くはないけど……なーんか、こそばゆいっていうか、えっと……」
 どう表現していいか少し考えあぐねて、そっと一言呟く。
「寂しかった?」
「……ンなわけないだろ」
「はは、じゃあ『押してダメなら引いてみろ作戦』、成功だね」
「馬鹿か……」
 呆れるように笑う彼の頬は赤く染まっていた。
 ボクまで少し恥ずかしくなり、ちょっと目線を下に下げてえへへと笑った。その後しばらく経っても、金井淵君の腕はボクの身体に絡みついたまま離れなかった。手をそっと彼の腕に添えて、ゆっくりと引き剥がす。
 うん、今しかないよね。ボクは鞄から小箱を取り出す。
「……!」
「綺麗でしょ、ルビーの宝石。……指輪とかは喜ぶかわからなかったから」
 綺麗にラッピングされた箱の中身を見せて、ボクはそれをテーブルに置いた。その中身に金井淵君は目を丸くした。
「日本に居ないときも、ずっと、想ってたよ。……だから、金井淵君が良ければ、付き合ってほしい、です」
 少し気恥ずかしくて言葉尻が小さくなったが、金井淵君は静かにボクの言葉を聞いて少しだけ頷いていた。
 答えは、言うまでもないのだろう。

 なんていうか、日本に来てからずっと夢を見ているようだ。これがボクの見ている都合のいい幻想で、ふと目が覚めて嘘だった―――としても違和感がないほどに、目の前の物事に現実味がない。
 だって、ずっと好きだった人が今、気持ちに気づいてくれたんだ。
 金井淵君の家でシャワーを浴びてから、ボクは神妙な面持ちでベッドのマットレスに腰を下ろしていた。
 なんだか、妙に緊張する。
 これから起こることが想像できるようで想像できない。それこそ、現実味がなくてふわふわしている。そのまま浮足立った気持ちのまま、この展開を迎えていいんだろうか。とすら思ってしまう。
 そうこうしているうちに部屋の入口のドアが開き、タオルを首に掛けた金井淵君が顔を出した。
「上がったぞ」
 そういう彼はふわりと熱気をまとい、ほんのりと頬を染めている。少し濡れた毛先がいつもとは違う雰囲気を醸し出していて、どきりと心臓が跳ねる。
 そのままボクの隣へと座り、濡れた瞳でじっとこちらを見つめている。
―――その姿に我慢できなくなり、ボクは思わず声を上げる。
「あ、あの、金井淵君!」
「何だ」
 金井淵君は不思議そうに首を傾げる。
「どっちが上、とか決めてなかったですよね」
 危なかった。大事なことを忘れているところだった。
 ボクがそう言うと、金井淵君は「あー……」と気の抜けた声を漏らす。
……最悪、彼が拒否すれば自らが下になることも承知の上で、ボクは覚悟を決めた。
「いや、一応ボクはどっちも大丈夫なので金井淵君のしたいほうで……」
「なんだ、そんなことか」
「……?」

「好きなんだろ? だから、お前は抱きたい方なのかと思ってたけど」
「いや、まぁそうなんですけども……」
 思わず言葉を濁すと、金井淵君はボクにそっと肩を預けて呟いた。
「オレはよくわからんから、お前に任せる」
「いや待ってください! それは嬉しいんですけど、金井淵君の負担になっちゃわないか心配で……んっ……」
 言い終わる前に急に唇が重ねられた。そのまま、彼の舌がボクの口腔をくすぐる。
 不意に心臓が跳ね、下腹部が熱くなる。
 唇が離れ、すこし固くなっていた股間を指でなぞりながら彼は笑う。
「そんなナリして何言ってんだ」
「あっ……あはは」
 急に恥ずかしくなって、ボクは思わず照れ笑いを浮かべた。
 金井淵君が続ける。
「それに、本当にいいんだ。さっき……練習してきた、から」
「練習? って……」
 ボクが聞き返すと、彼は目の前にローションを置いて言った。
「その……察しろよ」
 その頬は真っ赤に染まっており、その言葉の意味を察したボクは思わず息を呑んだ。

「んっ……」
 優しく抱き寄せて唇を合わせると、金井淵君はその吐息に小さく声を上げる。
 唇を離すと、少し苦しそうに呼吸を乱していた。
「じゃあ、嫌だったらやめるからすぐ言ってね」
「誰が……っ、んん……」
 そう言いながらも、彼はこちらの肩に腕を回してくる。それを合図にボクはゆっくりと彼の体に指を走らせた。
 その度に彼は小さく息を漏らしていて、いつもとは違う一生懸命なその様子が愛おしくて仕方ない。
「きょ、く、やまっ……」
「ん……」
 名前を呼ばれて、たまらなくて身体を密着させながら唇を這わせる。
 金井淵君の体温が、鼓動が伝わってくる。熱を帯びた肌がボクの身体にも伝染していって、身体の芯から痺れるように熱く昂っていく。
 そっと唇を離すと、目の前にはとろんとした表情でボクを見つめる彼の姿があった。
 半開きの口元からは、熱い吐息が漏れている。その潤んだ瞳に吸い込まれそうになっていると、そっと顔を引き寄せられる。そのままボクは押し倒された状態で彼に唇を塞がれてしまった。
 

「あッ、あ、うんっ……」
「ごめんね、もうちょっとガマンできる?」
 指を締め付けてくる感触に耐えながら、ボクは金井淵君に言う。
「あッ……あぅ……ッ!」
 金井淵君は顔を枕に押し付けるようにして、声を漏らさないようにする。
 この姿を見るのがボクだけに許された特権だと思うと、無性に嬉しい気がして自然と彼の身体に回した掌に力が入る。
 それは彼の身体を一層熱くしたようで、体温はどんどん跳ねていく。
「指、もう一本、いれるね」
「んっ……う、っ……」
 ボクの指が金井淵君の秘所をかきまぜるたび、彼の身体がぴくりと跳ねて小さく声を上げる。その姿はとても艶めかしくボクの視界に映る。
「あッ……ああっ、あっ……」
 その声をもっと聞きたくてボクは指の動きを早めた。そうすると彼は強くシーツを握りしめて、縋るような体勢で眉を顰めている。
―――その姿は煽情的だけれども、やっぱり少し苦しそうで思わず指を入れるのを躊躇った。
「……やっぱり、今日はもう辞めようか?」
 そう言いつつ指を抜いたら、金井淵君は首を横に振った。
「ん……っ、いや、だ……」
 シーツを強く握りしめ、うつ伏せになったまま金井淵君は小さく声を漏らす。
「……今日が、いい」
 少し苦し気に息を吐きながら、彼は切れ切れに言葉を続けた。
「……さみし、かったんだ。咲良から……いや、皆から言われたことで……お前が好きなんだ、……って、はじめて気がついた。でも……日に日に、お前が、別の人のモノになっちゃう、んじゃないか、って……ッ。……それを、考えてたら……」
「金井淵君……?」
「明日すらも、……来てほしくないんだ……ッ」
 拳を握りしめ、シーツに顔を押し付けながら金井淵君は言った。
 少しだけ涙声が混じっている、悲鳴にも似たその声を聞いてボクは思わず息を呑んだ。
 まさか、少し離れている間にそんなことになっていたなんて。
―――金井淵君がそんなにボクのことを思ってくれていたなんて、思いもよらなかった。
 そうとは知らず勝手に離れて迷惑をかけちゃったことは申し訳なく思いつつ、素直に吐露してくれた彼の想いがなんだか嬉しくて、ボクはそっと金井淵君の背中を撫でる。
「……ね、こっちむいてよ」
「……ッやだ、見せたくない」
「相変わらず、信用ないなあ」
 呆れたようにボクは笑う。
「……でも、わかったよ」

「もう解したから……入れるね」
「ああ」
 ボクは彼の腰をしっかりと固定し、ゆっくりと腰を押し進める。
 熱く柔らかい感触がボクの熱を包んでいく。その感触にボクの身体はびくりと震えてしまう。
「……っあ! ……んっ……ああッ……」
 金井淵君の口からは我慢できない声が上がる。それと同時にボクを包む体温がぐっと上昇した気がした。ボクは彼をぎゅっと抱きしめるように身をかがめながら腰を動かし始める。
「……ひ……、や、やだ……ッ」
 今まで感じたことのない未知の感覚に、金井淵君はどこに力を入れていいかわからないのか身体を右往左往させている。
 その度に動きを止め、ボクは安心させるように彼の頭や背中を撫でる。
「じゃあ辞めます?」
「それ、も……ッ、やだ……!」
 やだ、と金井淵君がまっすぐに首を振る仕草を後ろ姿で確認しつつ、ボクは再び腰を動かす。
「ッあ、あ……!!」
 ぱちゅんと淫猥な水音をさせながら、ボクはゆっくりと腰を動かす。そのたびに彼の身体がびくびくと震え、強くシーツを握り締めている。
 ベッドがギシギシと音を立て、シーツはもう汗か体液かでグシャグシャになっていた。
「あ、ッ、っは……あぁ、ッん……」
 金井淵君は顔を真っ赤にしながら、あられもない声を漏らし続けている。その姿に、思わずボクは喉を鳴らす。

 そろそろ果てると思った時、ボクはふと何かに気がついたように顔を上げる。
「まっ、て……」
 ボクがそう言って一瞬動きを止めると、急に刺激が変わって驚いたのか金井淵君は悲鳴じみた声を上げる。
「あッ、やだ……すんどめ、なん、って……」
 金井淵君は不安そうにこちらを振り返りながら、必死に息を整えている。その頬には涙のあとがあり、顔は真っ赤だ。
 そんな彼の耳元で、ボクはそっと囁く。
「……これからさ、涼君って呼んでいいかな」
 その言葉に金井淵君は一瞬顔を顰めて、呆れるように叫んだ。
「いい、からッ……いいからっ……あ、はやく……っ、しろ……!」
「うん……ありがとう、涼君」
 そう彼の名前を呼ぶと、ナカがきゅうと締まって陰茎が再び刺激する
 びくんと彼の身体が震え、腰をボクに擦りつけてくる。シーツを掴む彼の手に自分の手を重ね、さらに奥を突くように何度も腰を打ち付ける。
 何度かそれを繰り返してから、ボクは最後に彼の奥へ腰を打ち付ける。それと同時に、今まで張り詰めていた快楽が一気に弾けた。
「は、ああっ、……あぁんッ!!」
 身体を仰け反らせながら、涼君が果てる。そして彼はそのままぐったりとベッドへと倒れ込み、意識を手放したように力が抜けた。

 ボクは彼が果てたことを確認すると、優しく頭を撫でておでこにキスを落とした。
 きっと明日には狡いといわれて、呼び方なんて無かったことになりそうだけれども。
 そんなワガママなボクもきっと愛してくれるって、今は信じてるんだ。

 少しだけ眠っていたのか、目が覚めると辺りはすっかり暗くなっていた。
 物音がして思わず隣を見ると、金井淵君が服も纏わずに横たわっていた。
 彼は眠れていなかったのかボクが起きたことを確認すると、もぞもぞとシーツを手繰り寄せながら言った。
「なあ」
「ん……何ですか」
 寝ぼけ眼のまま答えると、金井淵君がシーツから顔を出して言った。
「お前のプレゼント、あの宝石なんだが……」
「ええ、やっぱり指輪にしますか?」
「それはなんかちょっと……恥ずかしいというか……」
 金井淵君はベッドに顔をうずめて口ごもった。
「じゃあ、そのまま置いときます?」
「いや、……曲山、サウンドストーンって知ってるか?」
「? なんですかそれ?」
 ボクが聞き返すと、金井淵君は「これ」とスマホの画面を差し出した。
「金管楽器のマウスピースに宝石をあしらうんだ。付ける石によって音色も変わるらしい」
「おお……いいですねそれ」
「調べてたら出てきたんだ。指輪も悪くないが、こういうのも面白いかと思ってな。お前の分はオレから贈るから、どうだ?」
「それ……すごく良いです! そうしましょう!」
 ボクが目を輝かせて言うと、金井淵君は安心したように眠りについた。
 長かった幸福な夜も白み始め、窓から朝日が差し込み始めた。

 そして数週ほどたった後日。
「り、りょ……金井淵君!」
「何だ」
「ついに一緒にセッションですね!」
 ボクが改まってそう切り出すと、隣にいる涼君はいつもの仏頂面でぶっきらぼうな返事をした。
 二人の背中にはトロンボーンの楽器ケース。久しぶりの演奏だ。
「いや、タダの練習だろ。お前のんとこの公演の補充に呼ばれてのな」
「でも、一緒なことには変わりないですよ! ほら見てください!」
 そう言ってボクはビシッと上を指さす。
 その先の上空には、青空が澄み渡っていた。
「雲一つない青空ですよ!」
「まぁそうだな。……」
「もっとなんか言うことないんですか⁉」
「別にないだろ。野外公演でもないんだから」
 相も変わらず呆れたように返す涼君に対し、ボクは気にせずニッコリ笑って問いかけた。
「アレ、持ってきましたよね?」
「……当然だ」
 涼君はそう言ってマウスピースを取り出した。
———良く見える中心部分には、キラリと紅色に光る宝石が埋め込まれている。

「じゃあやるか。楽譜は……」
「あ! その前にやりたい曲があるんですけど」
 ボクはそう言って、意気揚々とある楽譜を取り出した。
 その内容に、涼君は目を見開いた。
「……これは」

 二〇一四年コンクール課題曲のコンサート・マーチ。
 ボクはそれをあの日——―初めて敗北を喫した日から、ずっとセッションすることを夢見ていたのだ。
―――あなたとの関係はあの日から始まったと言って良いだろう。
 ボクが先に演奏し、あなたがそれに追い付き、そして追い越して行った。
 その後はボクの想いが先走り、あなたが一歩だけ近付いたかと思えばまた大きく離れて行った。
 そうか。演奏も想いも、今日ようやく足並みが揃うんだ。

 胸いっぱいのままその澄み渡る蒼を眺めると、ボクの頭にある言葉がよぎる。
「あ……まあ、結婚式なんて、柄じゃないでしょうけど」
「ん? 結婚式?」
「……なんでもないですよ」
 ボクはそう呟き、再び空へと視線を向けた。

―――サムシングフォーという言葉がある。
 古いもの、新しいもの、借りたもの、青いもの―――結婚式でこの四つを身に纏うと、幸福になれるというヨーロッパの言い伝え。
 偶然かもしれないけれど、今日はそれを体現するのにふさわしい日だと思った。
……ホントに偶然ですよ?

 青の空は清らかな心を映し出す。
 奏でる曲は過去を積み重ね。
 借りたメトロノームは未来を刻む。 
 涼君の口元には、ボクが贈った情熱のルビー。
 ボクの口元には、涼君からもらった絆のペリドット。
 青空の下、二本のトロンボーンから発された音は調和し、どこまでも響いていく。

-完-

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