除
気が付いたら、深い水の中にいた。
息の苦しさと纏わりつく衣服の感覚が煩わしい。
何処かの施設の貯水槽か何かだろうか。辺りは広大で薄暗く、コンクリートのような無機質な壁が視界の遥か遠くに見える。
上下の感覚はないが、どうやらより暗い方が底で、わずかに光が差しているのが水面の方向のようだということはわかる。だが手足を動かして水面へと向かおうとすると、まるで粘性の高い液体をかき分けているかのように鈍く重い。思わず口から吐き出した泡と対になっているかのように、自らの身体は暗い深淵へと沈んでいく。
どこまでも深く暗く、なんのために湛えているのかわからないその水は、塩素の匂いを孕んで鼻腔を強く支配する。
限界が……近い。
藻掻いた拍子に再び口から泡が吐き出され、代わりに体内に水が入り込み更に喉を締めあげる。その瞬間じわりと視界が赤く染まり、酸素の足りない肺が呼吸を求めてギシリと悲鳴をあげるように痛んだ。
意識が朦朧としてきて、平衡感覚がわからなくなるほど頭がぐらりと揺れる。
駄目だ。
ここで死んだら駄目なんだ強調。
微かな意識を強引に繋ぎ止めながら、まるで次に起きることがわかっているかのように己の目を見開いた。
―――水の底から、影が見える。―――暗がりより更に深い漆黒を拵えて。
その影は形を持たずゆらりと揺れ、こちらへまっすぐに身体を伸ばしてきた。
どろどろとしたものが自らの身体に巻きつき、まとわりついてくる。あっという間に取り込まれたそれは得体のしれないながら確かに質量を持っていて、生き物のように身体中の皮膚を這う。
自分の首元まで伸ばされた影は徐々に力を増し、まるで人の腕のような形へと変貌しそのまま己の喉仏の辺りで止まった。そして次の瞬間、ぐっと強い力で自らの首を掴まれた。空気を求める口は塞がれ、体内に入り込んだ水を吐きだすことすらままならない。
苦しい。だが、このまま呑まれる訳にはいかない。
鈍い腕を辛うじて動かし、影の中のひときわ大きな塊に手をかけて力いっぱいに締める。ズズ……と不定形の影が這いずるように形を変えていく感触と共に、徐々に自らの指先が影の奥へ奥へと入り込んでいく。
影は苦しそうにしながら耳を劈くほどの叫声を上げ、バキリ、となにかが折れる音がしたと思うと水中へ溶けるように黒の色彩が徐々に薄れていく。
―――その手をかけていた部分から、自分と同じような茶色の毛が姿を表したところで、己の息が限界を迎え視界が真っ白となった。
耳元に響く甲高い機械音とともに目を覚ます。手元の目覚まし時計を止め、汗だくになった額に当てていた右手を退けると、そこには見慣れた天井が広がっていた。
息苦しさから開放され、思わず喉に手を当てる。まだ、あの黒い影の手の感触が残っているようで、思わず嘔気を催す。
―――またあの夢だ。幾度となく見てきた夢。
いつまでたっても、慣れることができない自分に腹が立つ。
何とか息を整えながら立ち上がり、締め切っていたカーテンを開ける。
その隙間からは、眩しい朝日が差し込んでいた。
―――あの日から三回目の春。金井淵涼は、今日も自分を殺した。
第一章
桜花の候。
新年度特有の慌ただしさも相まってか、病院の廊下は人々で溢れかえっていた。医療スタッフが忙しなく行き交い、患者やその家族がどこか不安げな表情で待ち合わせをしている。ドアが開くたびに声や足音が響き渡り、騒々しい雰囲気が広がっている。
廊下にいる人たちを掻き分けながら、曲山・クリストファー・晴海は急ぎ足で前へと進んでいた。陽の光のような明るい髪を揺らしながらも、彼の額にはうっすらと汗が滲み、顔色は青ざめていた。
心臓がバクバクと鳴って、焦る気持ちだけが先立って落ち着こうにも落ち着けない。
―――どうか、無事でいてくれ……。
逸る気持ちを抑えつつ、曲山は祈るような気持ちで前へ前へと足を運ぶ。
そして目的の病室の前に辿り着くと、息をつく間もなくノックもせずに中へ飛び込んだ。
「まっ……ママ!」
病室にいる人達が、声を聞いて一斉に扉の方へと振り返る。その視線をものともせずに曲山があたりを見渡すと、その中の一番奥のベッドに座り込んでいる病衣姿の女性を見つけた。曲山の姿を見つけた女性は思わず声を上げる。
「あら、晴海」
「大丈夫!? たっ……倒れたって聞いて……慌てて来たんだけど」
曲山はその女性―――自らの母親の元へ駆け寄り、心配そうに声をかけた。
「だ……」
「大丈夫ですよ」
母が返事をする直前、曲山の背後で声がした。
後ろを振り返ると、白衣を着た初老の男性が立っていた。おそらく母を診療した医師なのだろう。
医師は患者である母親に軽く会釈をし、曲山に向かって話しかけた。
「曲山さんの息子さんですね」
「は、はい、……母はどんな感じなんでしょうか」
「お母様の症状ですが、軽い貧血とミネラル不足に起因するもので、大したことはありません。今は症状も安定していますしその点に関しては問題ないでしょう。ただ倒れた拍子に骨折している箇所があるので、念のため多少入院していただく必要があります」
「だってさ、もーママびっくりしちゃった。ごめんね心配かけて」
母親は医者に追随するように言葉を交わし、いつものように笑いかけた。
その姿をみて曲山はようやく落ち着いたのか、大きなため息をついて項垂れた。
「……う」
「……晴海?」
「……よかったぁ~~! 死んじゃうかと思って心配したぁ!」
そう言って曲山は顔を手で覆いながら涙をこぼした。緊張から解き放たれたことで一気に涙腺が緩んでしまったらしい。
「えー大げさよぉ、たかがちょっと立ち眩みしただけなのに」
母親が苦笑しながら言うと、少し照れたように自らの頬に手を当てた。なんだかんだ、息子が心配してくれたのが嬉しかったらしい。
そのまま曲山の頬を撫でるように手を寄せると、にっこりと微笑む。
「ごめんね、晴海。しばらく迷惑かけちゃうけど、よろしくね」
母のその言葉を聞き、曲山は母親の手をしっかりと掴んだままゆっくり頷いた。
入院の手続きのため、曲山はエレベーターに乗って一階のロビーまで降りた。
騒々しい病院内は受付事務も例外でなく、終了するにはしばらく時間がかかりそうだったので曲山は待ち時間でこの周辺を散策することにした。
待合室は意外に広く、簡素なソファが所狭しと並んでいた。暇つぶし用にテレビや雑誌も置かれてあり、それらを眺めながら人々は各々の面持ちで順番を待っている。
テレビでも見てようかな、と曲山はテレビの前の席に座ろうとした。
しかし、あるものが目に留まり足を止めた。
待合室の隅の子供用のプレイスペース。その一角に、アップライトピアノが置かれている。それはピアノに関してはあまり詳しくない曲山の目から見ても分かるほど、病院の備品にしては明らかに立派で本格的な物だった。
しかし、目に留まった理由はピアノが豪華だったからだけではない。
―――あの人、何してるんだろう。
自分と同じ高校生くらいだろうか、黒髪が印象的な端正な顔立ちの青年だ。彼はプレイスペースのピアノの前に座り、しかし弾く気配もなくピアノの鍵盤をじっと見つめていた。
ピアノのイスではなく、自らの車椅子に腰掛けている。その姿と腕から伸びる包帯からして、おそらくはこの病院の患者なのだろう。
彼は他のものには目もくれず、ひたすらに目の前を見つめていた。人々の声が溢れる待合室の中で、その空間だけはまるで異世界のような静けさを醸し出している。
曲山は思わず彼に向かって歩き始めて、声をかけた。
「弾かないんですか?」
背後から話しかけられた青年はそっとこちらを振り返ったが、特に気にする様子もなく再び鍵盤へと目を落とした。
「ん、まだ弾けねェんだ……腕が動かなくて」
青年はそう言って腕を微かに動かそうとするが、すぐに諦めたようにため息を漏らした。
「でもなーんかどうしようもなく体が疼くからさ、看護師さんにこの棟まで連れてってもらってンだ」
そう言いながら彼は少し俯き、寂しげな表情を浮かべた。その顔を見て曲山はそれ以上の言及はできず、そうなんですね、と言葉を零しそっと頷いた。
すると曲山を見て青年は何かに気づいたように、はたとそちらのほうを向いた。
「弾ける?」
「あ、いや、ボクは全然。主旋なぞるくらいならできますけど」
そう言って慌てて首を振る曲山に対して、青年は瞳孔を微かに開いた。
主旋、という単語が出たことに反応したようだ。
しかしそのまま表情を変えず、彼は静かに呟いた。
「ふーん、なんか音楽してるの?」
「あ、吹部でトロンボーンやってて」
「へぇ、じゃあ涼と同じだ」
「涼?」
「ん、中学の頃のダチ」
青年はそう言って再び鍵盤に視線を落とした。
その横顔を見て、曲山はあれ?と首を傾けて一人思考を巡らせた。
りょう、という名前は周囲にたくさんいるであろうが、吹部かつ同じトロンボーン担当であればその人とはどこかで会っているような気がして―――曲山は自分の記憶を辿るように目を瞑り、一人呟いた。
「あの、それって……」
「オイ、はやくかわれよー」
曲山が言い終わる前に、横のほうから声がして振り返った。そこに居たのは幼い子供で、自分もピアノで遊びたかったのか青年に向かって不満そうに口を尖らせている。
青年はその子のほうを振り返ってニヤリと笑ったが、ピアノの前からは微動だにせず言葉を零した。
「やーだ、もうちょっと居させてよ」
「なんでだよー、ひかないのにへんなやつ」
その子供の言葉に、ははっ、と乾いた笑いを浮かべながらも青年は優しく微笑んだ。
そのまま退かないままの彼を待つのに飽きたのか、子供はぶーぶー文句を言い続けながらもさっさと他の遊び場へと向かっていった。
「弾かないと座っちゃいけないなんてことねェよな。こうなったら足でピアニストめざそっかな」
そう言って青年は冗談交じりに笑った。
しかしその足ですら不自由そうな車椅子の彼に、なんて声をかければいいか分からず曲山は押し黙った。
「今笑うところだぞー」
「えっ……いや、でも」
「いいんだよこういうときは。笑い飛ばしてくれたほうがこっちもありがたい」
その言葉でようやく曲山は安心したように口角を上げ、どこかぎこちなく微笑み返した。
再び静かになったピアノの前で、青年が再び口を開く。
「名前は?」
「え?」
「名前。教えてよ」
「はい、えっと……米系ハーフなのでミドルがあって、曲山・クリストファー・晴海と言います」
「そう、晴海くんね。いい名前だ」
あまりにも自然に下の名前で呼ばれて、曲山は少しだけドキッとした。
「えっと……あなたは」
「オレは管崎咲良。じゃあ晴海くん、オレの代わりに音取りしてもらえないかな」
青年―――咲良はにこやかに笑い、そう言った。
「てか、結構長い時間取らしてしまったな。帰り大丈夫?」
「大丈夫ですよ! マ……母のお見舞いの帰りなので」
咲良の車椅子を押しながら、曲山は廊下を慎重に歩いていく。病院の受付が終わったあともピアノを弾かせてもらっていたので、昼前に来たのにすっかり外は夕刻を示していた。
窓の外から茜色に染まる空が見え、桜の木々が夕陽によって赤く照らされている。
「だいぶあったかいなと思ったら、もう春みたいだな」
「みたいですねー」
「ここに来て、桜見んのもう何回目だっけか。三回……ぐらいだったか」
「そんなに!?」
「まぁな。でもなんかすげーあっという間だった気がする。こんなに経ったんだからさー、もう早く退院してみんなと遊びてーよ」
「……そうですね」
桜の木を見上げ、寂しそうに笑みを浮かべる咲良を横目で見て、曲山は静かに頷く。
咲良のその表情には、どこか諦めにも似た感情が込められているような気がした。
「あ」
咲良の言っていた病室へとたどり着くと、部屋のドアの前に人影が立っていたので二人は思わず声を上げた。
深緑の髪に黒縁の眼鏡を着けた、寡黙そうな男だった。
学校帰りなのか高校のブレザーを身に纏っており―――曲山は彼のことを知っていたが、「面識はあったが話したことはない」くらいの関係の人物だった。
「……咲」
目の前の人物―――川和壬獅郎はこちらに気がついたように振り返り、咲良の名前を呼んだ。
「外出してたのか。で、なんでソニ学のやつと一緒に……?」
「ソニ学?」
そう聞き返す咲良に、曲山は「ボクんとこの高校です」と補足を入れた。
咲良は二人を交互に見渡しながら、不思議そうに尋ねる。
「たまたま話してただけだけど……え、知り合い?」
「おんなじ吹部なので多少の面識はまぁ……むしろ管崎さんは鳴苑の人と知り合いだったんですねー」
「お! そうなんだよ。オレの知り合いみんな鳴苑に行っててさー」
「おい」
軽快に言葉を発する咲良を静止するように、川和は鋭く声を上げた。
「もういいだろ」
「なんでだよー。せっかく気が合いそうな同年代のやつに会えたってのに。だいたい涼といいお前たちはいつも―――」
「咲!」
「へいへい。あ、ごめんな晴海くん。そういうわけなんで今日はこの辺で」
「あ、は、はい……じゃあ、お大事に」
曲山は狼狽えながらも、車椅子のハンドルから手を離す。
川和が代わりにハンドルを握り、咲良は自らの病室へと運ばれていった。
心なしか彼の車椅子のハンドルを握る力が強いような気がして、曲山は若干の違和感を覚える。
「……世話になったな」
そしてその川和の声を聞いた直後、少し強めに病室のドアが閉まった。
曲山は、そのドアの勢いにも面食らったのだが―――完全に閉まるその直前に自らの視界に入った、彼の睨みつけるような鋭敏な視線。
それはまるで……いや、完全に自分に対する拒絶の意を示していた。
「あんな顔しなくてもいいじゃん」
来た道を戻りながら、曲山は呟いた。
特に気にしていないつもりだったのだが、あの―――すべてを拒絶するような川和の視線が忘れられない。
個人的に恨まれることはしていないし、嫌われる理由も特に思い当たらない。それはそもそも学校も違うし、お互い面識が殆ど無いのだ。理由など無くて当然だ。
しかし、彼の車椅子を押している時に自分に向けられた目は、もはや殺意の域に達していた。
まるで”咲良に触れるな”といわんばかりの―――。
そんなことを考えているうちにロビーを抜け、病院の外に出た。顔をあげると、先ほど廊下の窓から見えていた桜の木々が視界いっぱいに広がった。まるで春の訪れを歓迎するように、色とりどりの花々が咲き乱れている。
風はまだ冷たいが、春の気配を感じさせる日差しの中で舞い散る桜の花びらが美しい。
「綺麗……」
そう言って曲山が見とれていると、ひときわ大きい一本の桜の下で同じように花を見上げている人影がいることに気が付いて曲山はそちらに視線を移した。
よく見ると先ほど会った川和と同じ制服であることに気付き、さらに他校ながらも曲山が知っている数少ない人物でもあった。
曲山は思わずそちらへと飛び出し、声をかける。
「金井淵君じゃないですか! こんなところで会うなんて」
「……なんでお前が」
曲山の姿を見て、琥珀色の髪の青年―――金井淵涼は驚いた表情をした。
いや、正確には少し目を丸くしただけで顔つき自体はそんなに変わっていない。むしろ眉を顰めて、どこか嫌そうな雰囲気すら漂わせている。
だが、彼があまり表情を見せない人間だということはわかっていたので、曲山はそのまま言葉を続けた。
「家族が入院することになりましてね。付き添いです。たまたまこの病院になっちゃいましたけど、いいとこですねココ!」
「……」
金井淵の返事は無い。
まぁ、彼は本気で訊きたかったわけではないというのは何となく分かっていたので、曲山は特に気にせず話題を逸らした。
「桜、綺麗ですね」
「……そうだな」
今度はちゃんと返ってきた、と曲山は安心した。
―――しかし、金井淵がぶっきらぼうに返した言葉が、案外素直なことに曲山は内心驚いていた。いつもならもう少し棘のある返事をすると思っていたのだが。
「あの……」
曲山が次の言葉を考えあぐねていると、突風が二人の間に吹き荒れた。風に煽られ、二人の髪が大きく揺れる。冷たさの残るそれに曲山は軽く身震いし、同時に髪についた桜の花びらを払い落とした。
「でもまだ寒いですよ。中に入らないんですか?」
「……人を待ってるだけだ、必要ない」
「いや、人待つなら待合室行きましょうよ」
「……」
「えっ、また無視!?」
曲山の言葉を再び無視し、桜の木に視線を向けた金井淵を見て、彼は肩を落とした。やはり彼の性格上、仲良くお喋りしてくれるわけではないらしい。相変わらず無愛想な人だなぁ、と苦笑いを浮かべて曲山も同じように桜を見上げた。
病院の周りを囲むように植えられた桜。薄桃の花びらが風に舞って散っていく様はとても美しく、まるでここだけ時間が止まったように永遠に感じられる。
金井淵は顰めていた眉を開いて桜を見上げている。普段は無愛想な男だなという認識でしかなかったが、こうしてみると桜越しに見る彼の横顔は―――なんだか様になっている。
まるで桜が”最初からこの人のために作られたのでは”と思わせるほどに美しい情景だった。
「……」
金井淵が沈黙を続けているのをいいことに、曲山は思考を巡らせた。
—――なぜ待合室に入らないんだろう? そんなに病院が嫌いなのか……いや違うか。じゃあ一体……。
そんなことを考えあぐねていると、金井淵はいつの間にか視線を桜から外して病院の方へと向けていた。
曲山が先ほど車椅子を押していた上の階の廊下だ。ああそうだ、確か、あそこには―――思い出したように、曲山はふと言葉を零す。
「さっき、あなたと同じ鳴苑の制服着た人に出会いましたよ。たしか川和君……ですよね」
「……ああ、会ったのか。今日はそいつ待ちなんだ」
「そうなんですね」
—――やっぱり川和君に関係ありましたか。と曲山は納得したように一人頷く。
……あれ? 確か金井淵君の下の名前って……それに……。
「鳴苑の、トロンボーンの人で、知り合い……」
頭の中でパーツが繋がり、曲山は思わずポツリと呟いた。
するとその言葉を不思議がるように、金井淵が口を開いた。
「急に何だ」
「ええと、……”涼”って、あなたの事ですよね」
そう言葉を零した途端、突然金井淵の顔色が変わった。
「……何で」
「え、いや、確証はないですけど―――」
「誰に聞いた」
金井淵が再び尋ねてきた。先ほどの表情とは一変して、彼は再び眉間に皺を寄せて曲山の方へ詰め寄る。曲山は少し狼狽えながらも返事を返した。
「管崎君って子です。―――車椅子の……うわっ!?」
曲山がその名前を出した途端、金井淵は険しい顔でこちらへと手を伸ばしてきた。
そのまま腕をのされ、曲山は桜の木の幹に体を押し付けられた。―――一瞬、胸ぐらを掴まれて殴られるのかと思い顔を逸らしたが、そうではないらしく金井淵はそのまま微動だにしない。
だが次の瞬間には、目の前にある整った顔立ちから鋭い眼光が曲山に向けられていた。
瞳の奥の淡褐色の虹彩が、じっとこちらを覗いている。
「えっ、えっ!?」
驚いて視線をさまよわせる曲山に対し、金井淵は耳元に顔を寄せて囁いた。
「―――お前は、関わるな」
「関わるな……って、か、彼のことですか?」
一連の流れに戸惑いながらも尋ねる曲山に、金井淵は淀みなく答えた。
「それだけじゃない、あまりオレたちに関わるな」
「……何故……ですか?」
身体を押さえつけられたまま、曲山は尋ねた。
それを聞いても金井淵はいつもの冷めた眼差しのまま、突き放すように言葉を放つ。
「お前が部外者だからだ」
「部外者、って……確かにそうですけど!」
唐突に発された彼の失礼な態度に、曲山は少し苛立ち語気が強くなる。
「……川和君といい、何なんですか!? ボクをそんな拒絶するように扱わなくたっていいじゃないですか!」
そう叫ぶ曲山の声には、怒りの色が滲む。
しかし金井淵はそれを静かに受け止めて、やはり淡々と答えた。
「お前には、関係ないことだ」
「……」
曲山は無言のまま、金井淵を睨みつけた。
その目には怒りの炎を上げていたが―――彼には何も効いていない、響いていないように見えた。
「……もういい、帰る」
金井淵はそう呟きながら漸く抑えていた手を離し、桜の木から退くように歩き始めた。
「待って、人を待ってるって」
「アイツには先に帰るって言っておく。……余計な邪魔が入ったとな」
振り返りもせずそう言い捨てると、金井淵はそのまま足早にその場を去っていった。
桜の花に紛れるように、すぐに彼の姿は見えなくなる。
それを見届けながら、曲山は不満げな口ぶりでその後ろ姿に向けて言い放った。
「……わかりましたよ、だったら大人しくしてますよ。……どうせ退院したら、この病院も用はないですしね」
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