カルテット 第三章

 

 花冷えの候。
 やっと咲いた鮮やかな春の花を眺める隙もなく、今日は季節外れの雨が降り出していた。基本的には穏やかな季節と言われているが、節目には未だ目まぐるしく天気が変わる季節でもある。
 せっかくの桜が散っちゃうなぁと思いながら、曲山は傘をさして校舎から外へ出た。
 しかし、傘に打ち付ける雨だれの音を聞きながらも、彼の病院へと向かう足取りは軽い。
―――何故なら今日は、母が退院する日だからだ。
「お世話になりました」
 すでに入院着から私服に着替えていた母は、そう言って深々と病室にいる看護師たちに頭を下げた。
「いえいえこちらこそ、お大事に」
 お礼を言われた看護師は、にこやかに手を振りながら去っていった。
「じゃあ、帰りましょうか」
「うん」
 そう言って曲山は荷物を持ち、母とともに廊下へと出た。
 外を見ると相変わらず雨がザアザアと降っていたが、曲山は無事退院まで漕ぎ着けられた喜びと安堵感で何も気にならなかった。
―――一滴の心残りを残して。
「でもあっという間だったなぁ、病院のこの光景も最後かぁ」
「え、なにそれ、もっとママに入院してほしかったの?」
「いやいや。ようやく部活戻れるし、良くなってよかったってちゃんと思ってるよ!」
 そう弁解する曲山だったが、廊下を歩いているときもキョロキョロと辺りを見回して落ち着かない様子を見せていた。
「えっと……」
「なに探してんの?」
「いや、最後に挨拶しときたいなーって人が居て」
 そう、曲山が気にしていたのは咲良のことだった。
 今日でこの病院が最後ということは、咲良と会うのもおそらく最後の日だということになる。
 最後に彼にピアノを弾いてあげたかったのだが、病院に着いた時点であのピアノの前には誰も座っていなかった。
 まぁ、雨だし、ここまで遠いし、あんなことがあったから来ないかもしれないけども。そう思いつつ、曲山はなんだか咲良が諦めるビジョンが見えず、―――彼がまたピアノの前に現れるんじゃないかという淡い期待が、胸の中から消えなかった。

「そんなに長期でもなかったのに……やっぱり入院ってお金かかるわねえ」
 受付で入院費の支払いを済ませ、ロビーで書類をまとめる。そこは奇しくも咲良と会ったピアノの側であったが、今は彼の姿は見えない。
「……居ないか、でも病室まで行くのはなぁ……」
 彼の病室は数棟先だし、退院したての母を置いて独断では動けない。彼に連絡先でも訊いときゃよかったのだけど、そもそもあの腕でスマホを扱えるのかすらわからなかったので訊くタイミングを失ったままここまで来てしまった。
 仕方ないけど、用はなくても今度またこの病院に来ようかな……と曲山はぼんやりと思考を巡らせていた。
「雨降ってるしパパが車出すって。もうすぐ来るみたい」
 母親がスマホから顔を上げてそう言ったので、曲山は軽く頷いて帰ろうと席を立った―――その時。

「曲山! ここに居たか」
 焦った様子の川和が、息を切らしながらこちらへと向かってきた。
 相当急いで来たようで、曲山の目の前で足を止めると息を整えるように肩を大きく上下させている。
「? は、はい?」
 川和に自分の名字を呼ばれて、曲山は思わず返事をする。
 何を聞かされるのかは分からないが、この病院の中で川和から拒絶以外の意思を感じたのは初めてであった。
「何か用ですか……?」
 曲山がそう問いかけると、一息深呼吸をして川和が答えた。
「突然すまない。……咲良の容体が急変した」
「!!」
 唐突なその言葉に、曲山は思わず目を見開いた。
「オレはこれから咲のところに行く。……お前も付いてきたければ来い」
 そう言うなり、踵を返して川和は廊下へと駆け出していった。
―――管崎君が?
 曲山は一体何があったのかを確認するために川和を追いかけたかったが、隣りにいる母親を放って向かうことは出来ずに慌てて視線を彷徨わせる。
 何も出来ずに狼狽えていると、一連の流れを聞いていたらしい母親が曲山に向かって口を開いた。
「行ってきなさいよ。アタシここに座ってパパ待ってるから」
「で、でもっ……!」
「よくわからないけど、お友達が大変なんでしょ?」
 母のその言葉を受けて曲山は息を呑み、大きく頷いた。
「ごめん! パパに言っといて!」
 そう言うと、川和の向かった方向へと迷うことなく駆け出した。

 咲良の病室を通りすぎて、病院の更に奥の方へと向かっていく。
 それが奥まっていく度に、人々の声は聞こえず静かになっていき―――事の緊急性の高さが垣間見える。
 廊下を足早に歩く川和に、ついていく形で曲山は追いかける。
 歩を進めるたびに、嫌な予感が胸を打つ。手先が少しずつ温度を失っていくのを感じる。曲山はあのヒヤリとした感覚が再び蘇ったのを肌で感じていた。
 とうとう我慢ができなくなり、目の前の川和へと問いかける。
「っ……! 今、どんな感じなんですか」
「……集中治療室に、いる」
「!? ……な、何があったんですか!」
「昨日までは元気だったんだが……熱が酷く、意思疎通が取れてないらしい……あとの細かい所は、残念ながらオレにもわからん」
 その言葉を聞き、再び曲山の心臓が強く脈打つ。先程までとは比べ物にならないほど鼓動が激しくなる。
 同時に、頭の中で色々なものが浮かんでは消えていく。
 そのなかにはどうしようもない、最悪の事態すらも頭をよぎり、曲山は必死で脳内を振り払った。

 集中治療室とプレートに書かれた部屋は固く閉ざされており、『手術中』のランプが赤く鈍く光る。
 もちろん医療関係者しか入れないので、これ以上は待つしかできない状況だ。
 曲山は川和とともに近くのイスに腰掛け、状況を眺めつつ待機をすることにした。
 定期的にドアから出てくる医者の話を又聞きするにつれ、曲山は心臓が止まりそうになる。
 何でも、身体の傷口から他の患者の細菌が入り込む形で感染症を引き起こすケースもある。という話を聞き、ズキンと心が痛む。
―――あのロビーまで、遠出していたせいだ。
 曲山はそう直感し、彼を連れ出していたことを容認していた自らにも責任があることを自覚して、拳を握りしめた。

「壬!」「壬ちゃん!」
 そうしているうちに舞と美子もやってきた。席を立つ川和に促され、廊下の側にあるイスに二人が力なく腰かける。
 すぐに曲山も川和に続いて立ち上がり、近くの壁に身体を預けた。
 曲山にとって二人とは初めて出会ったが―――残念ながら紹介を受ける時間は無く、お互いに軽く会釈を交わすのみであった。
 一応は彼女らの顔に見覚えがあるが、おそらくは咲良の友人だろうということくらいしか想像が出来なかった。
「……」
 川和から咲良についての一連の症状を聞いて、二人は言葉が出ないまま口を固く閉ざす。
 彼女らのその顔には、焦燥の表情が見て取れた。
「一応、涼に電話してくる……アイツのことだから、無駄だと思うけど」
 美子がそう言ってイスから立ち上がり、通話室へと向かった。
 無機質な廊下に呑まれるように、彼女はすぐに姿が見えなくなっていった。
「”涼”君は、ここには来ないんですか」
「……」
 曲山は川和へ尋ねたのだが、無言を貫かれた。
 きっとそれどころではないからかもしれないけれども、無言の意は静かなる肯定の意を示されているようで、曲山は「そっかぁ……」と呟いて言いようのない具合の悪さを覚えた。

 そうしていると、目の前のイスで黙って下を向いていた眼鏡の少女―――舞の肩が震えだした。
「……咲ちゃんが死んじゃったら、どうしよう」
 そう言って舞は引き攣るように身体を縮こませ、ボタボタと大粒の涙を流した。
―――親友の前では泣かないように必死で堪えていたらしい感情が、糸が切れたかのように一気に吹き出したようだ。
 そんな舞の様子を見て川和も動揺したのか、そちらへと視線を向かわせる。自らのポケットからハンカチを手に取り舞へと手渡したが、川和はそれ以上に出来ることが何もないのか腕を組んで傍に佇んでいた。
 曲山も、掛ける言葉が思いつかなかったのだが―――何かを決意したかのように、舞のもとへ向かった。
 彼女の前で膝をかがめ、そっと手を取る。
「大丈夫ですよ」
 その声を聞いて舞は顔を上げる。潤む瞳で見つめる目は真っ赤に染まっていた。
 曲山はそのまま優しい口調で、続けた。
「ボクは管崎君のことは何も知りませんし、事情も何もわかりません。だけど―――」
 言葉を止め、まっすぐに舞を見据えて曲山は次の言葉を放つ。
「ボクが保証します。管崎君は助かります―――だから、信じましょう」
 それを聞くと、舞の目が大きく開かれた。そしてそのまま何度か瞬きをし、またポロリと一筋の涙を流す。
「本当?」
「ハイ!」
 間髪入れずに発された曲山の言葉に、舞は大きく息をつくと目元を拭い「……ありがとう」と返事をした。
 
「お前は……無謀というかメンタルが強いというか……オレにはそんな言葉、無責任すぎて言えないな」
 落ち着かせるように舞の手を握り続ける曲山に対し、川和が呆れたように呟いた。
 それを聞いて曲山は柔らかい目つきから鋭い視線へと代わり、川和の方を向いて言葉を返す。
「確かに無責任な発言かもしれません。だけど……今信じてあげられなくていつ信じるんですか」
 それに、と付け足しながら、曲山は表情を和らげた。
「あなただってそれを期待してボクを探してたんじゃないですか?」
 川和はその言葉を聞き、一瞬目を丸くすると不器用そうに口角を上げて言った。
「……たまたまだ」

「ただいま」
 美子が通話室からこちらへと帰ってきた。―――案の定というか、どこか浮かない顔をしている。
 川和がそれに気づき、「どうだった」と美子に声をかけた。
「壬、やっぱり涼は……」
「……ああ、だろうな」
 美子の報告を受けるも、特に意外そうな顔もせず川和はそう答えた。
 話し終えた美子は、赤い目をして座り込んでいる舞の隣に座る。
 舞は泣き止みはしたが、少し疲れているようでイスの縁に頭を預けるようにうずくまっている。
 そんな彼女の背中を擦りながら、美子は静かに呟いた。

「……あたしたち、もう駄目なのかな。このまんま……みんな揃わないまま、「桜の音」を出せないままで……終わっちゃうのかな」

「……」
 誰も、何も答えられなかった。
 曲山だけが会話の流れについていけず首を傾げるが、重苦しい空気の中で聞き出す勇気もなく、黙って成り行きを見守っていた。
―――だけど……。
 曲山は心の中の淀む気持ちを、見ないふりをすることができなかった。
 静寂を切り裂くように、川和が美子へと話しかける。
「……美子、もういいんだ。「桜の音」はもう、あきら……」
「ボクがここに連れてきます!」
 川和の言葉を遮るように、曲山が大きな声で言い放つ。
「……曲山?」
 皆が驚いたような視線を曲山へ向けると、彼は自らの拳を強く握り、続けた。
「涼君……金井淵君が来てくれたら管崎君だって心強いですよね……だからボクが呼んできます!」
 そう言って曲山は意を決したように、外へと駆け出そうとした。
 しかし、川和がすかさず曲山の肩を掴んで引き留めた。
「待て、お前じゃ無理だ」
 冷静に告げられた言葉に、曲山は眉根を寄せて反論する。
「離してください! 無理だなんて言葉、そんなの……やってみないとわからないじゃないですか!」
「だが……」
「行かせてあげようよ」
 ふと声が聞こえて曲山と川和が振り返ると、舞が顔を上げてこちらを見つめていた。
 彼女の瞳は弱々しく揺れているが、その双眸はしっかりと目の前の二人を見据えている。
「……舞」
「壬ちゃんが止める気持ちもわかる……だけど……あたしはキミのこと、信じたいな」
 そう言って、舞は優しく微笑んだ。
「舞さん……!」
 舞の声を聞いて、曲山の顔がみるみると希望へと染まる。
「あたしも……なんか根拠はないけどアンタの顔見てたら、ひょっとしたら大丈夫かもなって思えてきた」
 隣の美子も続く。
「ねぇ、行かせてやりなよ。……あたしだって後悔したくないし」
 美子は顔を上げ、その先にいる川和に向かって話しかける。
 その言葉を聞いて川和は諦めたように手を放して、小さく息をついた。
「わかった……じゃあ頼んだ。恐らくだが涼はここからそう遠くない場所にいるはずだ」
「……はい!」
 そう返事をするや否や、曲山は再び外へと走り出した。

「……なーんか、似てるのよねえ。諦めの悪い所とか」
 走り去っていった曲山の後ろ姿を眺めながら、美子は呟いた。
「アイツが? 誰に?」
 疑問に思う川和を尻目に、美子がクスリと笑いながら答えた。
「誰って、アンタが一番よく知ってると思うけど?」
 美子は赤く光る集中治療室のランプをチラリと横目で見て、再び微笑んだ。

 暗い雲が空を覆い尽くし、静かに滴る雨の音が街の空気を包み込む。
 金井淵涼は雨が降っているのにも関わらず、病院の前の木の下に佇んでいた。
 それは奇しくも、以前曲山と出会ったときの桜の木と同じ場所であった。ビニール傘の上を雨粒が跳ねる音が、やけに耳障りなほどに響く。
 金井淵は定期的に視線を上にやり、傘越しに病院の上階の窓を眺める。そして、目当ての人物が誰も通っていないことを確認するとそっと目線を戻し、木の陰に隠れるように後ろを振り返った。―――その時。
「うわっ!?」
 目の前に人影が見えて思わず声を上げる。よく見るとそれは曲山で、雨に晒されたのか髪も服もびっしょりと濡れていた。
「み、見つけた……!」
 ゼエゼエと息を絶やしながら、曲山は金井淵の肩に手を置いた。前髪が額に張り付いて、その奥からはいつもの快活そうなイメージからはかけ離れた、陰鬱な表情を見せる。
「どうしたんだお前。傘は……」
「そんなんどうでもいいんですよ」
 言葉を遮りながら、曲山は金井淵に詰め寄るように近づく。
 その様子に普段からは考えられないような威圧感を感じ、金井淵は無意識のうちに後ずさりをした。
「どうして、行ってあげないんですか。美子さんから連絡来てますよね」
 決意を込めた瞳で、曲山に真っ直ぐに見つめられる。
 それを聞いた金井淵は、やはりかと思い表情を険しくして呆れたようにため息をつく。
「……何の話だ。というか、関わるなって言ったよな」
 強く眉を顰めて言う金井淵に怯むこともなく、曲山は続けた。
「もし最悪の事態があったときに……友達と、もう永遠に会えないままでいいんですか?」
「……お前には関係ないことだろ」
「関係なくありません!!」
 雨音を掻き消すほどの大きな声で、曲山の声が劈く。
 一瞬怯んだ金井淵の胸ぐらを掴むような勢いで、彼は再び叫んだ。
「一緒にピアノをして、今はまだだけどまた弾けるようになったらいいねって一緒に笑った! たった数日間だけど、ボクにとっても管崎君は大切な友人です!」
「……」
「ずっと話に出てましたから知ってます……あなたも管崎君の大切な友達なのでしょう? だったら……こんな半端な所に居ないで、闘っている管崎君の側で見守ってあげて下さい!」
「……っ」
 曲山の必死の形相に押されるようにして、金井淵は少し息を呑んだ。
「……行きましょう」
 そのまま沈黙を続ける金井淵に対して、曲山はそっと右手を差し出した。
―――手を取ってくれ、といわんばかりのその姿勢に思わず金井淵の指先が微かに揺れるが、動かすまい、その手を取るまいと自らの拳を握る。
 そのまま持っていた傘を前に傾けて、曲山と目が合わないように下を向いた。
「……」
「どうして手を取ってくれないんですか」
 傘越しに少しくぐもった曲山の声が響く。
「手を取る価値がないからだ」
 金井淵は淡々と、糸が張り詰めたかのような態度で答えた。
「……やっぱり、ボクじゃダメですか」
 曲山は少し下を向き、しおらしく答えた。
 その様子を見て、金井淵はそっと口を開く。

「お前じゃない。……オレだ」
 その瞬間、雨音だけが二人の間を通り抜けていった。

「……どういう意味ですか?」
 ぽつりと呟かれた彼の言葉に、曲山は再び顔を上げた。
 不思議そうに首を傾げる曲山に対し、金井淵は自嘲するようにか細く声を漏らす。
「オレが、咲良の全てを奪ったんだ。今更手を伸ばす価値なんてない」
 まるで懺悔のように吐き出された言葉が、雨に溶けていく。
「……オレが殺したようなもんだ」
「え、……管崎君は、死んでないですよね」
 金井淵の零している言葉が理解できず、曲山は思わず言葉を返す。
 しかし彼は何も言わず、ただ視線をそらし続けていた。

「……もう分かっただろ。だからオレは―――」
 そう言いかけて、曲山から顔をそらしたまま金井淵がその場を立ち去ろうとしたその時。
 真横から、曲山の顔がずいと迫る。自らが持っていた傘の中に入り込むようにして近づいていたことに気が付かずに、金井淵は動揺し思わず傘を取り落とす。
 それが空を切って泥を跳ね、地面へと叩きつけられた瞬間―――金井淵はそのまま曲山に抱きしめられていることに気がついた。
 何が起こったのか分からないまま、金井淵は彼の腕の中で目を見開く。
 曲山は無言のまま、金井淵を離さないように腕に力を込めていた。
 無音の空間の中、雨音だけがやけに大きく響く。降り続く雫は容赦なく二人の髪や頬を濡らしていき、体温を少しずつ奪っていく。
 けれども、曲山に触れているところは仄かに温もりを帯びていた。

「……どけよ」
「どきません」
 金井淵は彼を振り払おうとしたが、それを上回る力で抱きすくめられて、息を呑む。
―――力というより、これは彼の意志なのだろうか。
 曲山のその意志の強さにどうにもならずに、思わず金井淵は声を上げる。
「……可哀想だとか、同情の気持ちからだったら今すぐ手を放せ。……こんなことしたってなんにもならない」
「違います」
 曲山は強く首を横に振る。
「……意味なんてなくてもいいんですよ。ボクがしたいだけ、それだけです」
 そう言って、更に力を込めて引き寄せてきた。
「「桜の音」……ボクにはよくわからないですけど、出せないままなのは―――なんだか、ボクも嫌だなって思います。だから……」
 彼のその先の言葉は無い。
 曲山は強く目を瞑り、まるで祈りを込めるように金井淵へ抱擁を続けた。
 それはまるで、冷たく凍ってしまった彼の心を融かしてあげたい、と言っているようにも聞こえた。
 腕の中に包まれながら、金井淵は彼の行動の思惑を巡らせる。
―――彼のその祈りを甘受するということが、心地よくないといったら嘘になる。
 しかし―――金井淵は眉を顰めながら、抵抗するように次の言葉を吐いた。

「……離せ」
「いやです」
「いいから―――離せ。いい加減にしろ」
 金井淵は先ほどより更に低く、冷たい声で言い放つ。
 その声色に曲山はビクリと身体を震わせ反射的に腕の力が弱まり、その隙に金井淵は彼の腕からするりと抜け出した。
「あ……」
「満足か? 独りよがりの自己満足は」
 金井淵はそう吐き捨てるように言うと、地面に落ちた傘を拾い上げて踵を返した。
「べ、別にそんなつもりじゃ―――」
「うるさい」
 慌てて声をかける曲山の言葉を、振り切るように短く言い放った。
「これ以上、オレを搔き乱すな」
 金井淵はそう言いながら、曲山に背を向けた。
「……お前にはオレのことなんて、一生わからないだろう」
「……」
 去り際に投げられた言葉が、雨音と共に消えていく。
 残された曲山は、呆然と彼の後ろ姿を見送ることしか出来なかった。

 去っていった金井淵の背中を眺めながら、曲山は立ち尽くしていた。
 冷たい雨が降りしきり、彼の身体も心も容赦なく濡らしていく。
―――己の心にある熱く煮えたぎる感情すらも、冷まさせられているように感じられ―――曲山は無意識に歯噛みをした。
 そうしているうちに、ポケットに入れていた携帯の着信音が唐突に響き渡った。
 曲山は、番号のみが表示されたその画面のボタンを力なく押した。
『……曲山か?』
 電話口からは、川和の声がした。
「川和君!? どうして」
『すまない、緊急だったもんでお前のご両親に連絡先を聞いた。まだロビーにいてくれて助かったよ』
 突然の出来事に驚く曲山の耳に、川和の言葉が静かに響く。
『咲……管崎の様態はひとまず安定したそうだ。まだ油断はできないがな』
「っ……そうですか、良かったです」
 それを聞いて、曲山は一先ず安堵のため息をついた。
 しかしすぐに申し訳なさそうな顔になり、電話口に言葉を零す。
「あの……ごめんなさい」
『いい、わかってた……お前が謝る必要はない』
 謝罪をする曲山の様子に気付いたのか、川和は彼を宥めるように答えた。
―――あいつはそういうやつなんだ。と付け足して、あくまでおまえのせいではない、と念を押す。
 それを聞いて、曲山は再び口を開く。
「はい……あの、一つだけいいですか?」
『何だ』
「どこまで本気だったんですか」
『……どう言う意味だ』
 その言葉の意図がわからなかったようで、川和は少し間を置いて聞き返した。
「あなたはきっと、思ってましたよね。金井淵君を連れては来られないだろうって」
『……』
「わからなくなったんです。金井淵君のことも―――あなたの事も」
 自分でその言葉を口に出しながら、らしくないなぁ、と曲山は思った。
 けれども自分の気持ちが抑えられず、曲山は気がついたらその感情を声に出していた。
「本気では……なかった……ですよね、きっと」
 恐る恐る、だけどもはっきりと曲山はその言葉を言い終わる。
 最後の方は言葉尻が小さくなっていたが、それでも電話の先の彼にはっきりと伝わったように感じた。
 一瞬の間を置いて、川和が答える。
『……つまりだ。オレたちがお前に対して無理だろうと思いつつもわざと行かせたと思っているのか』
「……そうです」
『そんな面倒かつ底意地の悪い真似をするか』
「えっ……」
『実際お前がどういうことを言ったのか、涼がお前にどんな反応をしたのかは知らん。……だが』
「……」
『ただ……これはお前が思ってるよりずっと、根が深い話なんだ』
 電話口から、少しトーンを落とした声色が聞こえてくる。
 曲山は己を納得させるようにその言葉を飲み込み、黙って聞いていた。
『だがそれ以上に……オレは、お前なら引っ張ってこれるんじゃないかと思ったのは、本当だ』
「そう……ですか……」
『美子も、舞もそうだ。アイツらもちゃんとお前を信じていたと思うぞ』
 彼から少し意外な返答が返ってきて、曲山は思わず息を呑む。
 どうやら、自分が思ってたよりかは川和に信頼されていたらしい。
『……もう切るぞ。世話になったな。』
 川和はそう告げると、静かに通話を切った。
 あとには無機質な通信音と、鳴り止まない雨の音だけが響く。
 曲山はそのまましばらく立ち尽くしていたが、やがて雨の降り続ける上空を眺める。

 桜の花びらが、雨に打たれて溶けるように散っていった。

 

四章へ続く

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