カルテット 第四章

 前後不覚な浮遊感に酔いそうになりながら、管崎咲良は目を開けた。
 熱のせいだろうかと一瞬思ったが、己の身体は本当に宙に投げ出されているようで―――重力の赴くままに真っ逆さまに落ちようとしていた。
 下は厚い雲に覆われて何があるのかはわからないが、この高さから落ちたらひとたまりもないことは想像に難くない。
 引力に身体を揺さぶられながら、感覚のないはずの手先が徐々に冷えていくのを感じる。
―――死ぬ?
 その言葉が、ふと頭を駆け巡る。
 恐怖で目を閉じることもできず、迫りくる地面に叩きつけられる自分を想像し、身震いをする。そして、雲を突き抜け視界いっぱいに広がる灰色の世界が迫る―――ハズだった。

 何か生き物のような感触。それが自分の落下を妨げ、クッションのように身体を包み込む。
 衝撃も何もなく、一気に身体を包み込むようにその柔らかさに抱きとめられた。
―――生きてる?
 跳ねるような心臓を抑え、息を整える。

 視線を上げると、大きな龍の翅が視界に映っていた。
 龍の顔面は雲に隠れ、すべてを見ることはできない。しかし、その雲の端々に見える胴体がその全長の大きさを物語っていた。
「う、うわっ!?」
 驚いた拍子にずるり、と龍の身体から落ちそうになり、思わず己の身体を伸ばす。
 翅の付け根を掴んだその直後、自らの指先に神経が通っているのを感じた。
「……ははっ」
 視界がじわりと涙で滲む。おそらく夢だろうとは思うが、久しぶりの指先の感覚に思わず心が踊る。
 先ほどから感じていた明瞭な死のイメージが、脳の意識から徐々に遠ざかっていくのを感じた。
 きっと、まだ死ぬのには早いと誰かが云っているのだろう。
「……まだお迎えには早えーって言うんなら、我慢比べといこーじゃない」
 龍の鱗を撫でながらそう言葉を発した瞬間、視界が白く濁っていった。

 ピッ、ピッ、という心電図の規則的な音がして、目を覚ます。
 いつもの無機質な天井。だけどいつもの病室とは違う場所。自分の目の前には白衣を着た医者や看護師たちが立っており、こちらの目が開いているとわかった瞬間、医師たちは安堵の声を上げてまた慌ただしく動き出した。
―――良かった。
 自らも安堵するように息を漏らす。
 確かに不便な生活は嫌気が指していたが、死んだら元も子もないからだ。
 やり残したこと、死んだら悲しむやつもいるしな―――頭の隅でそうぼんやりと考えて、再び眠りへとついた。

―――あの日から三回目の春。管崎咲良は、今日も―――(解読不能)を救った。

 

 惜春の候。
 先日の雨で散ってしまったと思われていた桜の花はかろうじて生き残り、その隙間から徐々に若葉の色を覗かせた。その光景は、春が終わりに近付いていることを実感させるようであった。
「美っちゃん!」
 舞が病院のロビーへ顔を出して呼びかけると、名前を呼ばれた美子がこちらを振り返って立ち上がる。
 彼女のその両手には、一本の桜の鉢植えを抱えていた。
「それすごいね、本物?」
「いや、これは造花。枯れるのは逆に縁起悪い気がして」
 そう言って美子はふわりと微笑んだ。
 造花の桜はたしかによく見ると布の繊維で出来ているが、春爛漫のときのような薄桃色が色鮮やかに再現されている。
「そっかぁ……でも、ちゃんと匂いするね」
「桜のアロマが練られてんだって」
「そうなんだ」
「ほら、匂いするでしょ?」と美子に差し出された桜の花に鼻先を寄せ、舞は顔を綻ばせた。

 ガチャリ、と音を立て病室の扉を開くと、いつものようにベッドの上で咲良が窓の外を眺めていた。
 普段と変わらない光景なのだが、唯一違う点をあげるとするならば―――咲良の髪やベッド一面に、桜の花びらが大量に散らばっていたことだ。
「ちょっと咲!」
「おお、美子と舞じゃん。やっほー」
 思わず声を上げた美子だったが、当の本人はあっけらかんとした様子で挨拶をした。
「やっほーじゃないわよ全く。まーた勝手に外出してたんでしょ!」
「だってもう春が終わりだと思うと寂しくてさぁ」
「もー、誰が掃除すると思ってんの」
 そういいながら、美子は荷物を置きつつシーツに散らばった桜の花びらをかき集めた。
 その様子を見て、舞は嬉しそうな表情を浮かべる。
「でも咲ちゃん元気になってよかった。咲ちゃんが居なくなったら、私……」
 舞が咲良に向かって言葉を零す。
 一時は生死の危機に瀕してこそしていたが、咲良はそれを感じさせないほどに回復していた。
「なーに、オレがそんなんで死ぬタマかよ。こうなったら不死鳥のように生きてやるからな」
 冗談めいた口調で話しながら、咲良は口角を上げる。
 その様子を見て、舞はほっと息をつくように笑みを零した。

「はい」
 美子が、先ほど持っていた鉢植えをベッドの近くのテーブルへと置き直した。
 小ぶりとはいえ、他の写真立て等と比べるとその桜の枝はテーブル上を支配する厳つさがあった。
「おぉ、すげェな」
 咲良が思わず感嘆の声を上げる。
「造花だから、そんな好みじゃないかもしれないけど」
「ん、ありがと」
 咲良は美子に礼を言い、そっと目を細める。
 そのうちに病室内が桜の穏やかな香りで満たされて、咲良は満足げに鼻腔を広げた。

 学園の入部シーズンも終わり、吹奏楽部新入部員たちのパート分けも完了した。
 それからまもなく、様々な人と交流をするために鳴苑高校とソニ学とで合同練習が組まれることとなった。
 ライバル校同士切磋琢磨するための合同練習ではあるが、秋のコンクールのシーズンではない上に新入生が入りたてなので、この日は終始平和な空気であった。
 他校の実力を測るために火花を散らす者。久しぶりの親族の来訪に沸き立つ者。鳴苑サックスパートに入ってきた期待の大型新人を一目みたいと色めき立つ女子たちなど―――少々騒がしくもあるが穏やかな空気が流れている。
―――ごく一部。トロンボーンパートのある二人を除いては、だが。

「隣、いいか」
 合同パート練のため簡易イスに座っている曲山の真横で、金井淵涼が声をかけた。
 その声色には少しだけ気まずさのようなものを孕んでいたが、表情はいつものように淡々としている。
「えっ、あ、はい!」
 思わず上ずった声で返事をする曲山の隣に、金井淵は腰かけた。
 あの日以来、曲山の中でなんとなく話しづらさを感じていたので今はまさに好都合なのだが、何から話し始めればいいのかわからず言葉が濁る。
 そうこうしていると、金井淵は黙ったまま自らのポケットから小さな封筒を取り出し、曲山の制服のポケットへと捻じ込んだ。
「ちょ、何ですか! これは……図書カード?」
 曲山がおそるおそる取り出すと、中には小さなカード状の図書券が入っていた。
「それ、お前にやるから、こないだのことは他言無用で頼む」
 隣で譜面台を置きながら、金井淵がそう言い放った。
 正直、もっと酷く罵られるだろうと曲山は思っていたが、彼に人の秘密を勝手に吹聴する人間だと思われたのが妙に気に食わなくて、少しムッとなって反論した。
「言いませんよ……ボクを何者だと思ってるんですか」
「勝手に首突っ込む部外者」
「……その件に関しては謝ります」
 秒で正論を吐かれて、曲山は申し訳なさそうな顔になった。
「でもこれは受け取れませんよ。だってこれじゃあまるで、あのことをお金で……」
 そういいながら曲山は封筒をつっ返すように押し付けたが、金井淵は受け取ろうとせずに再び口を開いた。
「そう思うなら後でいくらでも罵れば良い。だけどこれは受け取ってくれ。それでチャラだ」
 金井淵は押し返そうとする曲山の手を払い除けて、強引に封筒を握らせた。
 そのうち抵抗することを諦めたのか、曲山はため息を一つついて鞄の中にそのままそれを仕舞うことにした。
 鞄を足元に戻しながら曲山は少し残念そうな、呆れたような声色で静かに問いかける。
「そうまでして、あの人のことを隠したいんですか」
 一瞬の沈黙が、二人の間に流れる。
 その言葉に金井淵は少しだけ顔を強張らせたが、すぐに表情を戻して、言葉を零した。
「……曲山」
「何ですか?」
「「桜の音」は、オレが完成させる」
「……!?」
 曲山はその言葉に目を見開いた。
「だから、もういいんだ」
 金井淵は自らのトロンボーンを組み立て、曲山のほうを振り向かずに続ける。
「お前はオレを引き連れて「桜の音」を創りたかったんだろうが、オレとお前とでは覚悟の差も何もかも違うんだ。―――生半可な気持ちで踏み込むな」
 そう冷たい声で言い放つ金井淵に対し、曲山は何も言うことが出来ず唇を強く噛み締めた。
「そのために、オレは毎日アイツの首を―――」
「毎日?」
「―――いや、何でもない」
 微かな己の呟きをかき消すかのように、金井淵は自分の楽器を手に取りイスへと腰掛ける。
 最後に付け足すかのように、金井淵は静かに言葉を零した。
「桜が散ったらこんなこと、お前も忘れるだろう。だから……オレを止めないでくれ」
 それを言い終えると金井淵は譜面台に楽譜を置き、マウスピースを口に当てていつものように演奏を始めた。
 いつものように正確で、力強くて―――だがどこか寂しい音色。
 それはまるで、何かの終わりを告げる合図のようでもあった。

 合奏を終え、風を浴びてくると言い訳をして曲山は教室の外に出た。
 すっかり冬の寒さも無くなったようで、開いた窓から春の陽気な風が吹き付けてそっと曲山の心を撫でる。
 もう少し学内を見て回ろうと階段を降りたところで、一つの人影と肩がぶつかった。
「あ、すみません」
「わっ、いや、こちらこそ!」
 曲山はそのぶつかった、栗色と朽葉色の髪をした少年に謝罪の言葉を述べる。
 そして、特に何事もなくそのまま廊下を歩いていった。

「……誰だ? あの制服の人……」
 振り返った少年―――神峰翔太は、曲山の後ろ姿を不思議そうに眺めて呟いていた。

―――時は、巡る。決して止まることはなく。

 それから、一年後。―――彼らにとっては四回目の春が来た。
 クラシック界のレジェンド、伊調剛健が主催したスプリングフェスティバルというコンサートに招待された数々の吹奏楽部たちは、鳴苑高校の組んだ意外なプログラムを目の当たりにすることとなった。
 プログラムの最後で、混成六重奏のアンサンブル―――。
 それぞれ意見に差はあれど、彼らは一様に驚愕、失望、感嘆の意を唱えることとなった。
 
 会場の座席で一連の流れを見ていた純白の制服の生徒達が、各々の言葉を口にする。
「なに、あの曲?」
「最後アンサンブルとか無いだろ。せっかくレジェンドに見てもらうってのにさ」
「てか、歌下手だしw」
「でも春よ来い、いい歌だよね」
「ユーミンだろ? でも吹奏楽向きかって言われるとなぁ……」
「確かに、今回の講評は俺たちがいただきだな」
「なんか知らんけど泣いてるw そんな言うほどか?w」
 様々な反応を見せる生徒たちをよそに、ステージ上の人物たちは一様に涙を浮かべ、満足したような笑顔を浮かべていた。
 演奏を終えた彼らが客席に向かい、丁寧に頭を下げる。拍手に包まれながら舞台袖へと消えていく彼らの姿には、ある種の清々しさがあった。

「……キョクリス先輩?」
 それを見ながらふと座席の隣を見た聖月が、目を丸くして言葉を零した。

「なんで、泣いてるの?」

 

 どこまでも続く荒野の中、曲山・クリストファー・晴海は目を開けた。
 喉を灼く痛みと、手足の先まで痺れるような倦怠感が自らの身体を蝕む。灼熱の日差しに照らされ熱を帯び、土埃で汚れた頬の感覚が生々しい。
 空は雲ひとつない快晴で、容赦ない陽光を地面に向かって浴びせかけている。今の状況を認識しようと思考を巡らせても、靄がかかったように身体の熱が邪魔をし、鈍らせる。
 立ち上がろうとしても、体が重い。だが、重いのは倦怠感のせいだけではなく、自らの格好が―――まるで鎧のようなものを身に付けていることに気が付き、ますます動揺する。
 次第に自分が、ボール大ほどの大きさの何かを大切そうに抱きしめていたことに気がついて、思わず視線を下へと向ける。その物体はボロボロの布に覆われており、剥がそうとしても己の指先が動かない。
 そうしていると突然大きな風が吹き荒れ、上にかぶさっていた布が吹き飛ばされる。思わず目を瞑り、再び開いた先に見えたのは―――人間の頭蓋骨であった。
 思わず声にならない声を上げると、カラ、と軽い音を立てて風に吹かれ骨が崩れていく。呆然としている間に全てが崩れていき、その骨は砂の塵へと消えた。
「あ……」
 ここはどこか、自分は何をしているのかを考える前に、目の前の骨が消えてしまったことに思わず声を上げる。
 その骨が、何か自分の中で大切なものだったような気がするのだ。
 今まで忘れていた。何かの記憶、誰も救うことの出来なかったあの日の記憶。
 灼熱の下なのにふと鼻腔に感じる―――桜の香り。
 そう思考を巡らせていると、自らの手に数本の髪のようなものが握られていることに気が付き、目一杯の力で手繰り寄せる。
 砂で滲む視界の中、その髪の色は深く湛える漆黒のようにも見えたし、鈍く光る翡翠にも、太陽に照らされギラリと反射する琥珀のようにも見えた―――。

「キョクリス先輩、起きて」
 自らの名前を呼ぶ声と、ポンポンと肩を叩かれる感覚で目を開けた。
 ぼやけた視界から徐々に輪郭がはっきりとしていき、起こしてくれたのが隣に座っている聖月だということに気がついて身体を捻らせた。
 どうやらスプリングコンサートの後、送迎バスの中で眠ってしまったらしい。カーテンから漏れる夕焼けの光が、眩しく照りつける。
「なんかうなされてたっぽいけど、大丈夫?」
 心配そうな表情を浮かべながら、聖月が顔を覗き込んできた。
「大丈夫です」と答えながら、そっとバスの窓を開けて春の風を浴びた。

―――あの日から四回目の春。四重奏は、桜の花びらとともに終演を迎えた。

 

終幕へ続く

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