外れそうな理性を必死に押さえつけながら、コビーはぶんぶんと首を振った。視線の先、目の前にずいと迫る柔肌を直視しないようにしながら、すぐそばの脱衣所へと駆け出していく。他所の家だからもう少し遠慮の意を示しておけばよかったとコビーは後ほど思い返したが、この時はそんなことを考える余裕すらなかったのだ。
暖かい水に打たれながら、必死に思考を洗い流す。心の中でひたすらに平常心と唱えて、コビーは湧き出てくる昂りをなんとか鎮めようとした。しかし、考えれば考えるほど火照った気持ちは収まることはない。バクバクと心臓が高鳴り、今まで感じていなかった先生の色気のある姿が目に焼きついて離れない。
なんというか、全て堰を切ったように流れ出してしまいそうだった。今まで抑えていた思いが。感情が。諦めていたつもりだったのに、再びこの世界で出会えたことによりほんの少しだけ欲目が出てしまい、そのままズルズルと流されていってしまいそうだった。
だめだ、このままでは先生に迷惑をかけてしまう。そう思った瞬間、コビーは意を決したようにシャワーのノズルを冷水に切り替えた。
風呂場の外で、衣擦れの音が聞こえる。おそらく先生が脱いだ服を片付けてくれているのだろう。その優しさにありがたいと思いながらも、その音ですら冷静になれない自分が居たので思わずため息が漏れた。
人影が居なくなったタイミングを図ってようやく脱衣所へと足を運ぶと、洗濯機の上には着替えが用意されており、ついでに洗濯も開始してくれたようだった。
タオルで体を拭き、少しだけ大きいTシャツに袖を通すと、先生の匂いがした。どこか懐かしいような、前の世界とおんなじ匂い。それが全身に包まれていると、まるで彼自身に抱きしめられているような感覚に陥るが、もちろんそんな邪念は振り払わねばとコビーは必死に頭を振って脱衣所を出た。
「お、上がったか」
部屋のどこかでヘルメッポの声が聞こえた。思わずそちらを振り返ると、コビーは再び目を丸くした。
ヘルメッポは換気扇の下で―――パンツ一丁で煙草をふかしていた。
透けて見えていた肌どころではない。端正な身体つきとすらりと伸びる足に思わず目が泳ぐ。指先で弄ばれている細い煙草が、口元へと運ばれる度に唇が目に止まる。伏し目がちの眼差しが何とも言えぬ色香を醸し出しており、コビーはまたもや体内に熱が籠もるのを感じた。
「ちゃ、ちゃんと着てください」
思わず目を逸らしながらコビーはなんとか言葉を絞り出した。当のヘルメッポはコビーのその態度に怪訝そうな顔を浮かべつつ、煙草を灰皿へと押し付ける。
「いやどうせすぐシャワー行くし、別に変な目で見るやついねェだろ」
―――まさに今目の前にいるのになあ、とコビーはそう思いつつも言葉を飲み込んだ。
なんというか、やっぱり先生はそういう意識なんて全然してないんだなとも思ったし、そういう風に見られているともまず考えていないんだと思うと、心の奥底に申し訳ないなという思いが溢れてくる。
だからこそ、この感情は悟られてはいけない。コビーはそう思うとともに、拳を握りしめて覚悟を決めた。
しばらくしているとヘルメッポが部屋のほうを指さしながらコビーにそっと促した。
「漫画とかテレビとかあるし、暇なら見といていいぞ。さすがにパソコンは勘弁だが」
「あ、はい!」
「あっ、言っとくけどな、机の下になんか隠したりとかしてねェからな。マジだぞ」
それだけ言うとヘルメッポは脱衣所へと向かい、扉をバタンと閉めた。
窓の外は未だに雨が降り続いている。コビーはヘルメッポの居なくなった部屋で、改めて部屋を見渡した。
言われていた通り棚に漫画や書籍が並んでいたり、テレビ台の上に小さなテレビが鎮座していた。手持ち無沙汰にとりあえずテレビを点けようとしたが、電気代のことが頭をよぎりリモコンの手が止まった。ならばとコビーはふと思い立ち、棚を物色してみる。するとそこにはヘルメッポの愛読書がずらりと並んでいた。
それはなんていうか、現代にヘルメッポさんが居たら好きそうなラインナップだなと思った。抜け巻があったりダブっていたりとか、妙に抜けているところも彼らしい。
そのうちの何冊か手にとって眺めてみる。あまり馴染みのないタイトルだったが、先生の好きなタイトルというだけで、するすると読めてしまうような気がした。
ふと足元を見やると漫画のほかに雑誌も買っているらしく、棚の下辺りに雑に積まれていた。そちらも見てみたかったが手を伸ばしたところで、手が止まる。
俗に言う、グラビアというやつだろうか。水着の女性が蠱惑的な体勢で写っている表紙が目に入った。見てはいけないと思いつつも、思わず棚に手をかけて一番下まで雑誌を引っ張り出してしまった。
―――いや別に先生だって男なんだからそういう類のものを嗜むことくらいあるだろう。そうは思うのだが、なんだか無性にもやもやとしてしまうのだ。前の世界ではそんなことはなかったはずなのに、どうしてだろうか。妙に胸の中がチリリと焦げ付くようだった。
そうしたところでコビーは、先ほどの先生の言葉を思い出す。言葉をそのまま受け取るのだとしたらおそらく机の下、もしくはパソコンにそういうのが隠されているんだろうなと直感したが、無視した。なぜならそれは、抗いがたい事実を直視するのが嫌だったからだ。
先生は、自分のことを好きにならない、と。
というか、そもそも怒られそうだな。とコビーはひとりごちて言い訳をしつつ、再び手元の漫画へと視線を戻した。
バタンと扉が開き、シャワーが終わったヘルメッポが顔を出す。
「お、いいチョイスじゃねェか」
ヘルメッポはそう言いながらコビーが読んでいる漫画を後方から覗き込んだ。不意打ちの接近によりボディーソープの香りが漂って、コビーの心臓が跳ねる。
「あ、わわ、ヘルメッポさ……」
「ここもうちょっと進むとヒロインのえっちな……」
「わ、わーーーっ!!」
勝手にページを開こうとするヘルメッポにコビーは顔を真っ赤にしながら慌てて本を閉じ、勢い良く本棚に突っ込んだ。
「ッハハ、冗談だよ。お前にはまだ早ェか」
ヘルメッポはニヤニヤと笑いながら、バスタオルで頭をガシガシと拭いた。前も良くそうやって笑ってたっけなあと思いながらコビーは唇を噛んだ。
「てか、お前髪濡れたままじゃねェか」
そう言いながらヘルメッポがコビーの髪を梳くと、まだ湿った感触が残っている。
「あ……」
「あ、そっか! 場所わかんねェよな! ドライヤー持ってくるわ」
「い、いや、別に……」
「遠慮すんなって、なんならついでにやってやるよ。こっち来い」
躊躇するコビーを尻目に、ヘルメッポはドライヤーを取りに洗面所へと向かった。
―――そうやって手招きされると、抗いがたい感情に苛まれてしまう。
どうしてこんなことになったんだろう。
一人で出来るって言ったのに、あれよあれよという間に絆されてコビーは今やヘルメッポの腕の中にすっかり埋もれてしまっている。
もちろん、恋慕のハグなんかじゃなくドライヤーを使うという大義名分のもと膝下に座らされて髪を乾かされているだけなのだが、それでもコビーは思わずドキドキしてしまう。
撫でるような温風が心地よい。だがそれよりも、そっと自分の髪を梳くしっかりした指先と背中に伝わる先生の体温でどうにかなってしまいそうだった。普段よりも近くで感じる先生の息遣いだとか、匂いだとかで頭の中がぐるぐるしてわけがわからなくなる。
だが、そんな様子のコビーにヘルメッポは一切気が付いていないようだ。
「お前……スゲェ髪うねるな……上のやつとかどうやっても取れねェし」
そう言いながらヘルメッポは髪の頂点部分を丁寧に撫で付けたのだが、ひょこんと再び戻ってしまう。そんな様子を見ながらヘルメッポは困ったように笑い、コビーのつむじに顎を乗せた。
ざわり、と背中が総毛立つ。先生の体温が直に伝わる感覚に、くらくらしてどうにかなりそうだった。もう我慢ができないかもしれない。このまま少しでも身体をホールドさせたら力任せに押し倒してしまうかもしれない。そんな衝動に抗いながらも、コビーは平常心を保とうと目をぎゅっと瞑った。
「や、も、いいでしょ。もう乾きましたから、ありがとうございます」
コビーは思わずヘルメッポを引き剥がした。その間も、必死で深呼吸をして心を落ち着かせる。コビーが言葉を発するのと同時に、ドライヤーの音が止んだ。
「ああ、そう。じゃあなんか菓子でも食うか?」
ヘルメッポは平然とそう促したが、コビーは首を横に振って答えた。
「いえ、もう帰ります」
「えっ?」
キョトンとした表情でヘルメッポはコビーのほうを向いた。
窓の外では未だに雨が降り続いている。
「なんでだよ。まだ雨やんでねェし、服だってまだ……」
ヘルメッポがそう言っている間も、コビーは唇を噛み締めながら俯いていた。――もう、これ以上は無理だ。このまま一緒に居たら、きっと自分は先生を傷付けてしまう。
コビーはぐいと拳を握り、赤い頬を見せないように顔を逸らして言葉を絞り出した。
「……このままだとぼく、先生に酷いことしちゃいます」
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