その日が近づくと、無性に海へと出かけたくなる。
日々散々飽きるほど見ているはずのその水平線は、今日も変わらず陽光を反射してきらきらと輝いている。
水彩絵の具を流したような淡い青空に、じりじりと夏の気配を感じる初夏の日差し。その光の下で、波の穏やかな蒼い海はただ静かにさざめいていた。
寄せては返す波の音を聞きながら、潮の香る風を浴びていると―――それはやがて記憶の中の光景へとすり替わっていく。
ヘルメッポは白い帽子と髪を風に靡かせながら、まっすぐにその果てを見つめていた。
もう随分と、遠いところに来た気がする。地図でももはや確認できないほどの距離、そして―――あくる日の過去からも。
あの頃の自分が立っていた場所を、今ではもう振り返ることもない。いや、振り返りたくないだけかもしれない。―――普段の自分なら、きっとそう思っていただろう。
だけど、この日だけは違っていた。
―――そう、ヘルメッポの中ではこの日だけは何年経っても特別な日、なのだ。
ふと吹き抜けた強い風が、白い帽子を押し上げるように煽った。ヘルメッポは手でそれを押さえながら、じっと水平線の向こうを見据える。
父─—─モーガン大佐。かつての自分を縛っていたすべて。あの男はある日、大罪を犯して逃げた。
名誉も、立場も、責任も、そして家族も、何もかも投げ捨てて。
自分にそんな野蛮な血が流れているというだけで酷く吐き気がするが、それは既にどうしようもなく、変えようのない事実だ。
けれども、そんな歪んだ家族である自分にも幸福な日はあった。豪華な食事と甘いケーキ、兵士たちは一様に自分を敬い、盛大に甘やかされたあの記憶。
アレ以上に祝われたことは、少なくとも本部に来てからは一度だって無い。
……あれは果たして、愛情だったのだろうか。既に遠い記憶の果てにある朧気な記憶だけれども、ヘルメッポは何故かどうしてもそれを否定できなかった。
上っ面の虚構だと認めてしまえば、楽になるのに。薄れていく記憶の中で、そんなものはなかったと消してしまえば穏やかになれるのに。
だけどあの日の父親が向けたあの目だけは、何故か色褪せないのだ。
怒りか悲しみか、それとも寂しさなのか―――なんとも形容しがたい感情が喉元から込み上げてくる。
あのとき確かに縁を切ったはずなのに、それでも時折こうして思いを馳せてしまうのはきっと―――この水平線の先で、まだのうのうとのさばっているんじゃないかと望んでいる自分もいるのだろう。
ヘルメッポは大きなため息をひとつ付き、そして唐突に顔を上げた。深く被っていた白い帽子を脱ぐと、海風が髪を揺らして、首筋をくすぐる。本当はこんなことをやっている場合ではない。まだまだ自分にはやるべきことがあるし、この海の平穏は未だ現れない。
しかし、今は少しそれを忘れたかった。
波の音に耳を傾けながら、己の階級章を水平線のその先へと見せつけるように取り出した。東の海のものではない、本部のれっきとした燦々と輝く努力の証だ。
そして間髪入れず肺いっぱいに息を吸うと、ヘルメッポは力強く叫んだ。
「―――どうだ! お前よりずっと出世してやったぞ! バカ親父!!」
喉元にあふれる感情をそのまま、吐き出す息に載せる。腹から胸に込み上げる何かを抑えきれずに嗚咽が漏れるのを必死に堪えながら、ただただ感情のままに叫び続けた。
潮風が吹きあれ、叫び声をもっていく。―――だが構わない。届く必要などない。
ただ、言わずにはいられなかった。
「おれが捕まえるまでせいぜい生きろよーー!! 達者でなァーー!!!」
声が枯れるまで、喉が痛むほど叫んで、ようやく呼吸が戻ってきた。胸の中が空っぽになるような、何かを吐き出せたような、そんな感覚。ヘルメッポは名残惜しく思いながら、やがて静かに帽を被り直す。それから胸の中に残るわずかな寂しさを振り払うように、ヘルメッポは海に背を向けて歩き出した。
何故か知らないが目尻に涙がたまる。
曲りなりにも少佐という地位についているくせに情けないが、ついこの間もみっともなく泣き喚いていたので今更どうでもいい。むしろ、自分が未だその男に向けて涙を流せるということに驚いた。あんな野郎に未練もなにもないはずなのに。
だけど、今日という日が近づくたびに思い出してしまうワケは、それはきっと―――。
そこまで考えたところで、ヘルメッポは海岸の砂浜のその先に、自分と同じ白い衣服を纏った影を確認した。
気配を感じるまでもない。眼の前の青年はいつも通りの精悍な顔立ちを浮かべてその場に立っていた。
「……来ると思ってたぜ」
ヘルメッポは目の前にいるコビーの姿を見やった。隊服のまま額に汗を滲ませて、息が上がっている。
走ってきたのか――と思うだけで少し高揚する自分もいたのだが、ヘルメッポは零した涙を拭いつついつも通りの笑みを浮かべた。
「ほんとは邪魔しないように待ってようと思ってたんけど……なんか様子がおかしいから」
コビーがそう言うと、ヘルメッポは「いや?」と白々しく息を吐いた。
「別に、いつも通りだが? いつも通りの――なんでもねェ日だ」
それを聞いた途端、コビーはむすっとむくれたような表情を浮かべる。もちろん今日が、ヘルメッポの誕生日だということをコビーは知っている。だからこそ、はぐらかそうとするヘルメッポを咎めるような、それでいてどこか寂しそうな目をしてコビーは呆れたように声を漏らした。
「……誕生日が嬉しいことだって教えてくれたの、ヘルメッポさんじゃないですか」
「……ンなこと言ったかなァ」
「言いましたよ! ……だから、ぼくは」
そう言いかけて、コビーは一瞬だけ口を噤んだ。水平線からの海風が、二人の間を通り抜けていく。
「そんな呪いなんて跳ね除けるくらい、ヘルメッポさんには幸せになってほしいんです」
まっすぐな瞳で言い切られたその言葉に、ヘルメッポは一瞬だけ目を丸くした。
“呪い”――その表現に、思い当たる節がないわけじゃない。自分を縛りつけ、振り切ったはずなのに今日のようにふと立ち止まらせる、父という存在。それは確かに、幸せを遠ざける“何か”だったのかもしれない。
けれど、すぐには答えられなかった。ヘルメッポは視線を逸らし、潮風にそよぐ前髪を押さえるように手を額へとかざした。
太陽の残光が眩しく滲む海の向こうへ、ゆっくりと目を向ける。
「呪い呪いっていうけどさ……おれにとっては、なーんかあん時の思い出が嘘っぱちだとは思えねェんだよな」
ヘルメッポはそう言いながら、どこか苦笑のようなものが口元に浮かんだ。
――自分でもよくわからない、手放しきれない記憶。全部を否定できたら、どれほど楽だっただろう。
「……!」
「だからこそ全然わかんねェってのがあるんだけどさ……まあある意味では呪いってやつなのかもしれねェな」
自嘲気味にヘルメッポが言葉をこぼすと、しばしの間を置いてコビーが口を開いた。
「……ぼくじゃ、代わりにならないですか」
思いがけない言葉に、ヘルメッポは小さく目を見開いた。それと同時に僅かに何かが胸の奥で軋む音がした。
コビーはそのまま、言葉を紡ぐ。
「お金も、甲斐性もないけど……あ、実力はあるかも。……っていうか、あります」
「……いや、まあな。お前は、ちゃんと強ェよ」
「だからあんな人のことで……思い悩んで欲しくないんですが」
ヘルメッポはふっと鼻で笑ってから、ゆっくりと帽子を深く被って目を伏せた。
「……親ってのはほんとに、難儀な野郎だな」
その言葉を皮切りに、風が再び潮の香りを運んでくる。―――どこまでも青い海の向こうから。
ヘルメッポはコビーを静かに見つめ、まるで独り言のように宙に向かって言葉を吐いた。
「どんなクソ野郎でも、世界の果てに居たって―――なんなら空の上に居たっても、おれを蝕んでくるんだ」
「……」
「……おれはもう一度、抱きしめてもらいたかったのかもしれねェな」
コビーは、掛ける言葉が見当たらなかった。上書きするように―――新しいぬくもりでその記憶を塗り替えることも出来たのだろうが、それでは到底埋まりはしない感情に苛まれているということにコビーは気がついてしまったのだ。
まるで嘲笑うかのように海風が交差する。行き場のない手を下ろしながら、コビーは少しだけ寂しそうに目線を下げた。
その様子に気がついたヘルメッポが、ふっと頬を緩めて改めて視線を合わせる。
「ま……っ、こんなくよくよしてても仕方ねェのは確かにそうだ。帰ろうぜ、コビー」
「……うん」
明るく装ったその声に、コビーは一拍遅れて頷いた。
「……あの、ヘルメッポさん」
身を翻して砂浜を踏みしめていると、コビーが静かに呼び止めた。ヘルメッポが半歩、足を止めて振り返る。
「帰ったらケーキ、用意してます。そんな豪華なもんじゃないですけど」
「ん、おお、サンキュな」
「プレゼントも、一つだけなら聞いてあげます。ぼくはセンスないのでリクエストはおまかせで」
「マジか、んじゃああのブランドの新しい……」
「あ、あんまり高いのはちょっと……」
少し戸惑うコビーをよそに、ヘルメッポはフッと笑みを零す。コビーなりの優しさや暖かさが、今はとても眩しい。だからこそこんなところでうじうじと振り返っている自分が情けないなとも思いながら、日常へと戻ろうと再び砂浜を歩き出した。―――その時だった。
コビーが、ほんの一拍の間を縫うようにしてその背に腕をまわす。
「……!」
ヘルメッポの体が一瞬ぴくりと強張った。
驚きのまま振り返ることもできずに固まる彼の背に、コビーの声が落ちる。
「こ、これは、ただ……したかった……だけです。代わりになりたいとか、そういうんじゃなくて」
言い訳がましくも発するその声は震えていた。けれどその震えは臆病さから来るものではなく、不器用なまま誠意だけを込めた声だった。どこにも行き場のない過去を受け止めきれないでいたヘルメッポの背中を、まっすぐな想いが包む。
過去にはもう戻れない。けれどこの背中に触れている手は、確かに“今”を生きている手だった。
黙りこくったまま俯くヘルメッポの後ろで、コビーは口を開く。
「だけどぼくも、ヘルメッポさんの大切な関係の一部になりたいんです」
―――大切な関係。その言葉を静かに反芻する。背中越しに感じる心臓の鼓動すらなぜか心地よくて、鼓膜の奥に静かに響く。
過去ではなく、今。この先のことを、こんなふうに想ってくれる存在がいる―――その事実だけで、胸がいっぱいになりそうだった。
情けないやら、申し訳ないやら、どう言葉にしていいかわからない。けれどそれでも、ヘルメッポはゆっくりと肩の力を抜いた。
「……それは充分、なってるって」
やっと絞り出すように言ったその一言に、コビーの手が、わずかに強く抱きしめ直す。
波の音が、ふたりの沈黙を包み込んだ。それは今の二人を叱咤するでも歓迎するでもなく、ただそこに在り続けているだけだ。
「……ありがとな、コビー」
それは、父にはきっと向けられなかった言葉だった。
きっとまた、この海に来るだろう。けれど今度は、一人じゃないって、そう思えた。
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