学校から徒歩十分、そこから電車に乗り十五分。そのまま家へ直帰する舞たちと別れ、オレは都市部のショッピングモールへと向かっていた。部活終わりのこの時間は、買い物をする人たちやフードコートでたむろっている人でごった返していた。オレはそれを一瞥しながら、エレベーターで三階のボタンを押す。
人混みは苦手だ。だが今日は、トロンボーン用のグリスがもうすぐ無くなるので買い足すため、仕方なく来ることになった。
たったこれだけを買いに行くのにわざわざ電車に乗らなきゃいけないのは、地方在住の辛いところだよな……と、オレはひとり心の中でぼやいていた。
そうこうしているうちに、楽器屋にたどり着いた。一階の喧騒とはほど遠く、緩やかなジャズの音楽が流れるその空間にはギターや電子ピアノが所狭しと並んでいる。その隙間をくぐり抜けながら、管楽器のあるスペースへと足を進めていった。もう何回も来ているから、この動作も慣れたものだ。
売り場の向かいにはレンタルスタジオもあり、かすかに音が漏れ出していた。管楽器ではなく、ギターとドラムの重低音のようだ。どこかのバンドか軽音楽部だろうか。もしここで見知った顔と鉢合わせしたら気まずいので、管楽器の音ではないことにひとまず安心した。
安心した。と思っていたのだが。
「あれ? 金井淵さん?」
背後で声が聞こえたのち、ポンと肩を叩かれた。知らない声だ。
思わず後ろを振り返ると、白い学ランに身を包んだ金髪の男が立っていた。
「やっぱり金井淵さんだ!お久しぶりです!」
金髪で黒のメッシュが入った、青いサングラスをした特徴的な見た目の男だった。
久しぶりということはどこかで会った事実はあるのだろうが、この男の名前を覚えてなかった。だがこちらの名前は把握されている分、どこか奇妙な感じを覚えた。
「えっ……と……誰」
「あれっ!? 知らない!? 合同練習のときに一緒に演奏したじゃないですか!」
名前を覚えてないことにショックを受けたのか、男は驚いたような顔をした。
「私立ソニトゥス学園の曲山・クリストファー・晴海です! ハーフです! 帰国子女です!」
そういって目の前の男は自己紹介を始めた。ひとまず名前はわかったが、堂々とハーフだと申告する必要は果たしてあるのだろうか。まあどうみてもハーフっぽい出で立ちなのだが。
「そうか。で、何しに来たんだ」
「名前言ってもピンと来てないですか!?」
「知らん、どうでもいい」
「や、やっぱりあだ名である”キョクリス”のほうが知れ渡ってるのでしょうか……」
「それも知らん」
名前を覚えてないのは正直申し訳ないと思ったが、いきなりあだ名だとか言われても知らないし、そんなのは心底どうでも良いのでオレはため息をついた。
なんか、めんどくさい奴に会ってしまったな……。
「だから何しに来たんだ」
「あ、グリスの調達です! あと新譜のチェックとか」
そう言い終わると曲山はひょいと近くにあったグリスを手に取り、楽譜コーナーへと向かっていった。
オレはそのまま自分の買い物に集中すればよかったのだが、ここで、曲山が手に取ったグリスがどうにも気になった。同じトロンボーン奏者として、あのグリスは自分はあまり選ばないタイプのものだった。
本来ならここでスルーしたほうがすべて穏便に済んだだろうが。グリスをすぐに取った仕草からも、曲山のチョイスにどうにも助言をしたくてたまらなくなった。
「おい、ちょっと待て」
そのままレジへ向かいそうになった曲山を、思わず引き止めてしまった。曲山は「なんですか?」といい、こちらを振り返った。
「お前が手に持ってるやつは手軽だがあまりおすすめしない。滑りで言うとこれがいい」
曲山が握っていたグリスはスティック型で、サッと塗るのはちょうどいいが、塗りが足りなかったりして常用するには向いていない。自分も使用していたが結局使わなくなったからよくわかる。
その代わり、自分が買おうとしていたグリスを棚から取り出し、曲山の手に渡してやった。
「グリスはトロンボーンの要だ。しっかり選んでおかないと肝心なときに足元を掬われるぞ」
「……」
しまった、話しすぎてしまった。と言い終わる前にオレは気が付いた。こんなほぼ初対面の男にこんなことまで話してどうする。大体、スティック型が普通に買いたかっただけなのかもしれないのに……。
自己嫌悪に陥る自分を後目に、曲山はきょとんとした表情で手渡されたグリスを眺めていた。
引かれるかもな……とすら思ったが、その想いとは裏腹に曲山はキラキラとした羨望の眼差しで、こちらをぐいっと見上げた。
「すごい! 詳しいですね! ありがとうございます!」
「え、まあ……」
「買います! 家宝にします!」
「家宝なんかにすんな。使え」
引かれてないことにひとまず安堵したが、食いつき方が半端なくて逆に自分が引いてしまった。
「またいろいろと教えてくださいよ」
レジで会計を済ませたら、出口で曲山が待っていた。どうやらまだ話したりないといった様子で、自分に向かって視線を向けていた。
「断る。てかもう会うこともないだろ」
「いいじゃないですか! どうせこの辺楽器屋ここぐらいしかないですし」
「まあ、それはそうだが……」
「あ! どうせなら休日とかご飯いきましょう! 金井淵さんの知ってる話たくさん聞きたいです!」
「いいかげんにしろ」
茜色のショッピングモールは、どうやら厄介なものを呼び寄せてしまったらしい。
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