二つの光

 

 第五十六回群馬県吹奏楽コンクールは、天籟、竹風、そして鳴苑高校の関東大会代表進出が決定した。下馬評からしたらかなりの大番狂わせだったようだ。
 喜ぶ代表生徒、悲しむ生徒、大急ぎで帰りの支度を急かす先生、今更こちらのほうに駆け寄る記者など、さまざまな人がこのホール内でごった返していた。中には本大会で引退する者もいるようで、何人かが廊下で最後の挨拶なるものを始めていた。正直進行方向の邪魔だから早く帰ってもらいたいものだが。

 少しトイレに行くと皆に伝え、楽器や荷物を後輩達に預けて手洗いに行ったものの、どうやら迷ってしまったらしい。
 かなりの距離を歩きつくして何とか男子トイレを見つけた時には、随分と遠いところに来てしまったと思った。人通りも少なく、もう他の生徒の喧騒も廊下に響かないほどだ。だが、正直人混みに疲れていたので、ようやく一人になれた……と安堵した。

 用を済ませ、手を洗う。渦を描きながら流れていく水を見ながら、ふと先ほどの演奏を思い返す。

 神峰翔太が来てから、鳴苑は変わった。多くの部員がそんなことを言っている。実際県大会はダメ金を突破し、関東へ足を進める結果になった。
 認めたくはないが、アイツなら、もしかしたら……。

 そう考え直そうとした、そのとき―――

 突然、バン!と扉を強く打ち付けるような音がなり、その後、カランカランという小さなものが床に落ちる音とともに、誰かの唸り声のような嗚咽の混じった音が聞こえてきた。
 オレは驚き、思わずあたりを見渡した。すると、その音は一番奥の個室の中から聞こえたようだった。ここには自分しかいないと思っていたのだが、先客がいたようだ。
 そのままここから立ち去ることもできたが、もし誰か倒れていたら一大事だ。オレは思わずその個室の前へと駆け寄った。
「だ、大丈夫、ですか? 具合悪いなら近くのスタッフ連れてきます、けど」
 ドアに向かって声を掛けた。返事はない。
 だが衝撃で個室の鍵が開いたのか、扉が微かに動いた。すかさず扉を掴み、大きく開けた。

「……! おまえは……」
 個室の先にいたのは、つい先程、ホールの客席で言葉を交わした人物だった。
「あ……」
 その人物は白い制服を纏い、長身を縮こませながらトイレの個室にうずくまっていた。
 こちらを見上げるその目には、涙が溢れていた。

◇◇◇

「なんだか、恥ずかしいところを見られてしまいましたね」
 会場の廊下の隅、聞こえる声はすべて下の厚いカーペットに吸い込まれてしまいそうな静かな空間。
 自分と相手以外誰もいない空間の中で、声の主である曲山・クリストファー・晴海はようやく落ち着いたのか、涙を袖で拭いてそっとこちらに目を向けていた。
「ほんとにな」
 オレはため息をつきながら隣の席に座った。
 泣いているところを見られたくなかったのか、外に出たくないと喚く曲山を尻目に、床は汚いからとりあえず廊下へ出ろと強引に連れ出したのが先程の話である。
「せめて帰りのバスくらいまでは我慢しようと思ってたのですが、なんか、糸が切れちゃって」
 そう綴る声はところどころ掠れていた。まだ唇が震えており、悔しさを隠しきれていないようだ。
 こういうときは、フォローをするべきなのかもしれないが、正直に言うとどうしたらいいのかわからなかった。おそらく、今の曲山に何を言っても嫌味にしかならないだろう。

「ほらよ」
「え……?」
「眼鏡。あとついでにこれで涙も拭いとけ」
 先程の衝撃で、床に落ちていた彼の眼鏡をハンカチごと曲山に差し出した。水で洗っていいものかはわからないが、しないよりましだとは思う。
「ありがとうございます」
 曲山はそう礼をいい、眼鏡とハンカチを手に取った。
「あ、指紋が……」
「うるさいな。悪いが慣れてないんだこういうのは」
「いいですか金井淵君、レンズは眼鏡の命なんですよ」
「そもそも落としたおまえが悪いだろ」
 そう答えると、曲山はふふっとほほ笑んだ。この様子ならまぁ大丈夫だろう。

 ソファの席を立ち、オレは出口に向かって歩き出した。谺先生も置いていくなんてことはしないだろうが、遅すぎたら怒られるのでそろそろ帰らないといけない。
「もういいだろ、俺は帰るぞ」
「あっ、待ってください!」

 数メートルほど進んだところで、曲山が再び俺を呼び止めた。

「関東大会、絶対に負けないでくださいよ」
 その言葉に、思わず足を止めた。
「わたしに負けたって思うんだったら、わたしのぶんも背負って、勝ったって思えるような演奏をしてください」
 振り返ると、曲山が自分をしっかり見つめて言っていた。まだ目は赤いままだが、その視線と、決意にみなぎるその顔で、意志の強さが伝わった。
――そんなこと、言われなくても答えは決まっているのにな。
 オレは振り返らずに一言だけ答えた。

「当然だ」

 

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