静かな夜だった。海軍本部のあるマリンフォードは、海に囲まれているので潮騒がよく聞こえる。火薬の匂いと雄々しい哮りが常に響き渡る日中とはうってかわって、今は静かに響く波の音と、規則的に照らし出される灯台の明かりのみが暗い海面に揺れていた。
海軍宿舎の麓、ベランダで手すりにもたれかかりながらヘルメッポは夜風を浴びていた。
モーガンの件で何故かガープ中将に気に入られ、あれよあれよという間にコビーとともに本部所属雑用兵となったのだが、ヘルメッポは未だにその事実を受け入れずにいた。
―――今見てる景色も、現実とは思えんな。
そう思いながらヘルメッポはただぼんやりと、港へと着く船を眺めていた。
「おい雑用。消灯時間はとっくに過ぎてるぞ」
警備の海兵が苛立ちの表情を上げてヘルメッポのほうを睨んでいた。
「ひえっ、あ、ハハ……すいやせん、ただのションベンなんで」
愛想笑いを浮かべながらヘルメッポは慌てて手すりから身を離す。
「明日も早いんだ、早く寝ろ」
「へいへい」
海兵の忠告に対し、ヘルメッポは面倒くさそうに返事をした。
ったく、おちおちションベンもできねぇのか。
ヘルメッポは内心で舌打ちをしながらも、自らの宿舎へと戻っていった。
海軍の宿舎は本部の近くにある平屋の建物だ。階級ごとに部屋が割り当てられており、一番下の雑用であるヘルメッポは二段ベッドの敷き詰められたタコ部屋のような部屋である。狭いしプライバシーなんてあったもんじゃないが、正直あるだけありがたい。
消灯時間はとうに過ぎているので部屋の中は真っ暗である。廊下の明かりだけを頼りに部屋の奥まで進み、ヘルメッポは自分のベッドに潜り込もうとシーツをどけた。
「えっ……?」
そのとき、ヘルメッポは思わず目を疑った。
自分のベッドの上に、何故かコビーがうずくまっていた。まるで何かに怯えているように身体を折り曲げ、よく見ると目尻には涙を浮かべている。
「こ、コビー?」
ヘルメッポが驚いた拍子に思わず後ろにずり下がると、部屋の壁に背中が当たって、ゴンと鈍い音が聞こえた。
「何の音だ?」
その音が響いてたのか、部屋の外にいる見張の海兵が怪訝そうに周囲を見回しはじめた。
「やべっ」
ヘルメッポは慌てて海兵からの視線を避けるようにこっそりと自分のベッドへと戻り、うずくまっているコビーごと上からタオルケットを被せた。
「わっ……ヘルメッポさん」
「……おい!何で勝手におれの寝床に入ってんだ」
ヘルメッポは驚いてるコビーの声を手で抑えながら、見張りに聞こえないような小声で問い詰めた。
「……」
コビーは黙ったまま答えない。「何だよ……」とヘルメッポは怪訝な顔をした。
どうにも様子がおかしい。コビーは何か言いたげに唇を噛み締めて、黙っている。いつものヘラヘラとした明るい笑顔も消え、今は悲しそうな表情でシーツを握るだけであった。
彼が何故自分の寝室にいるのか、そして泣きそうな顔をしているのか理由はよくわからないが、今はそれよりもバレないようにしないと。と押さえる手をそのままにヘルメッポはコビーとともに狭いベッドの上でひたすら声を押し殺していた。
しばらくすると見張りの足音が聞こえなくなり、再び寝室に静けさが戻った。
「……はぁ、ようやく行ったか」
ひとまず安堵したヘルメッポは、コビーに触れていた手を離した。コビーは肩で息をしながら、ひょこりとシーツから顔を出す。
「ごめん、ヘルメッポさん」
「何なんだよお前」
「ううっ……」
再びのヘルメッポの問いかけに対しても、コビーは涙を浮かべたまま微かな呻き声をあげるのみだった。
……面倒くさいな。
ヘルメッポはその場に胡坐を組み、はぁとため息をついて答えた。
「ま、大方怖い夢でも見たんだろ。んで一人じゃ寝れないなんてガキじゃねーんだから」
それを聞くとコビーはタオルケットを頭にかぶりながらコクコクと頷いた。
「あのなあ、ここは海軍本部だぞ、あのジジイのゲンコツ以上に怖いことがあろうか……よ……?」
ヘルメッポが呆れた表情で言葉を発した。しかしその瞬間、コビーがヘルメッポの服の裾をぎゅっと握り締めて、縋りつくように肩口に顔を埋める。
気が付いたら、ヘルメッポは再びベッドへと縫い付けられてしまった。
「へぇ……っ?」
驚いて目を見開くヘルメッポを前に、涙をためたコビーが顔を顰めて言った。
「……ヘルメッポさんが、居なくなる夢を見て」
その言葉は、あまりにも予想外だった。
「は……?」
「起きて夢だってわかったあとも胸騒ぎがして……ここに来たらやっぱり居なくて……ぼくを置いてどっか行っちゃったんじゃないかと……」
その言葉にヘルメッポは呆然としたままコビーを見上げる。コビーの声はか細く震え、目尻に溜めた涙が雫となってヘルメッポの頬へと落ちて流れていった。
あいも変わらず泣き虫な奴だが―――おれが居なくなったくらいでなんでそんな顔出来んだよ。
ヘルメッポは今にもひどく嗚咽しそうなコビーの目尻を拭いながら、不満そうに答えた。
「おいコビー、お前、おれさまを舐めんじゃねーよ。それともおれはそんなヤワなやつだと思われてるのか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「……それに、どこにも行かねーよ」
そう言ってヘルメッポは、コビーの頭を撫でた。
「え?」
「に、逃げ場がねーってだけだからな! 別にお前が心配とかじゃねーからな」
口走った言葉に自ら顔が火照る。思わず言い訳をするヘルメッポに、コビーはきょとんとした顔で小首を傾げていた。
全く、おれのことも少しは信用しろよな。と内心で悪態をつきながらも、すっかり泣き止んだコビーを前にヘルメッポはどこかホッとした気持ちになっていた。
「えへへ、ありがとうヘルメッポさん」
「お、おう……まあ、その……なんだ。そろそろ寝ようぜ」
「うん、じゃあぼく、戻―――」
コビーがベッドから戻ろうとしたので、ヘルメッポは「いや、そうじゃなくてさ」と呟き、コビーの腕を引いて自分の布団の中へ引きずり込んだ。
「うわっ……!」
「心配なら、このままここで寝とけ。今日だけだぞ」
ヘルメッポはごそごそと隣のスペースを開けてコビーを寝かし、ぶっきらぼうに答えた。
「あ、あの」
動揺したコビーがなにか言いかける前に、ヘルメッポは寝たフリをするようにわざと目を閉じた。
コビーは初めは遠慮がちにベッドの端っこへ身体を預けていたが、次第にヘルメッポへと寄り添い、小さな寝息を立て始めた。
ようやく安心したように眠るコビーを横目に見ながら、ヘルメッポは小さくため息をつく。こいつもめんどくせぇなやつだなあと心の中で呟くが、結局自らも睡魔には勝てずにそのまま静かな眠りへと落ちていった。
◇
「……なーんてこともあったよなぁ。な、大佐?」
数年後、雲一つない晴天。目の前を真っすぐ突き進む海軍軍艦の甲板には新しい風が吹き込んでいる。
ひぇっひぇっと特徴的な笑い声をあげてヘルメッポはそう言い、ふと隣の青年を見やった。
「む、昔の話じゃないですかあ……!」
正義のコートをはためかせ、大佐と呼ばれた青年―――コビーは頬を赤らめて恥ずかしそうに顔を覆っていた。

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