ここに来るまでに相当揉まれてきたから、不安への耐性は人並み以上にはなったと思っていた。
荒れ狂う海に飲まれそうになるときも、銃弾の雨に打たれても。
同胞の返り血を浴びたり、己の刃で誰かを傷付けてしまったときでも決して膝をつくことはない。それが海軍に所属しているモノの宿命だからだ。
市民の味方である象徴としての我々は、絶対に海賊に屈してはならない。たとえ命の危機に瀕しても、己の忠義を見失うことなく使命を全うする。それが海軍本部の海兵の在るべき姿であり、誇りであると。
……とまあ、ここまで講釈を垂れてきたがおれ自身もホントのところは実際はわからない。なんなら市民の味方なのかすらもハッキリとしないまま、言われるがまま身を賭しているに過ぎないのだ。
話が逸れたな。とにかく、おれたちはどんな時だって立ち止まってはいけないし、世界をより良くするために不安な思いに駆られてはいけない。そのためにはどんなことだって歯を食いしばって頑張ってきたんだ。
だけども、己の半身とも言える存在の異変に、おれのちっぽけな覚悟は無惨にも砕かれてしまいそうだった。
コビーの様子がおかしいことに気が付いたのは、ついこの間のことだった。世界会議の護衛任務を終えたあたりから、おれたち海軍は連日過酷な任務に追われることとなった。理由は言うまでもなく、王下七武海の撤廃という制定である。契約を組み半ば合法的に海賊行為を遂行していたヤツらが、その瞬間只の犯罪者へと成り果てたのだ。
この世界の秩序が根底から覆りそうなほどの決定に際して、我々が割を食うのは容易に固くない。おれも少佐だ。人を使役する立場である以上、この決定により大幅に神経をすり減らされる結果になったわけだ。
そういうことがあったからなのかどうかはわからないが、おれよりも上の立場であるコビー……コビー大佐と別々の任務をすることも多くなった。別に必要以上に心配をしているわけではなかったが、今までずっと二人一組で任務をこなしてきていたのでおれはどこか心に隙間が空いたような気持ちに駆られていた。
―――その矢先の話である。
プルプルと船内の電伝虫が騒ぎ出す。おれは受話器を手に取った。
「……はい、本部三班少佐ヘルメッポ。ご用件は」
「……」
その先の言葉は無い。そのうち、ガチャンという音とともに通信が途切れた。
おれは、―――またか。という声を漏らす。初めは間違いか悪戯電話かと思っていたのだが、特別な電波を使用している海軍の電伝虫に限ってそんなことはないだろうという結論に至ってからは、さらに不審な思いに駆られることとなった。
そしてまた別のある日。その電伝虫を使用して何か通信をしているコビーも目に入るようになった。それこそ普通の通信で、別に気になることもないとりとめのない任務の話だろうと高を括っていたのだが、先述の無言電話の件も含めどうにもきな臭いと感じていた。
その証拠とばかりに、おれがコビーの下へと近付くとすぐに通信が切られた。やはりどうにも怪しく感じてしまう。その後もコビー自身の態度は特に変わる様子はなかったが、逆にその反応がおれの疑念を確信へと変えたのだった。
「コビー」
「……どうしました? ヘルメッポ少佐」
コビーはまるで何事もなかったかのように、おれの方を向いて答えた。なんかその改まっている言い方も、今はちょっと癇に障るな。
本来は上司と部下の立場として接しなければいけないのだが、疑いが晴れないおれはいつも通りの態度を崩さずにコビーをじっと見つめて動向を伺った。
「……お前、なんか隠してることないか?」
「……どうしてそう思ったんです?」
そういいながらコビーは僅かに目線を逸らした。ああ、これはもう何かを隠している顔にしか見えないな。長年の勘がそう告げている。少しだけ距離を詰めて更に問いかけた。
「いや、最近ヤケに通信ばっかしてっから、誰とやってんのかなーって」
おれがそう問いただすと、コビーはいつもの表情ではなく明らかに翳りを見せたような顔つきを見せた。やはり何かがおかしい。一体どうしちまったんだよと心の中で叫んだ。
「……任務の話ですよ。こんな状況だったら頻度なんて増えるでしょ」
コビーはそう吐き捨てるように言い、その場を逃げるように去っていった。
―――まるで心臓に杭が打たれたかのように、おれはこれ以上何も言えず立ち尽くした。曲がりなりにも相棒の、そんな姿を見るのはこれが初めてだった。
それだけじゃない。もう一つ、妙な噂が海軍の中で流れ始めていた。
……どうやら海賊の一派が、海軍の誰かと繋がっているらしいという話だった。
憶測でしか無いその情報も、今のおれを不安にさせるには十分すぎるものだった。七武海……かどうかはまだ不明なのだが、この状況で個人的に繋がるとしたら大抵そこら辺だろう。海賊女帝か、千両道化のバギーか。ドフラミンゴ……は投獄されているからまず無いとは思うが。
思うに、トラファルガー・ロー辺りが怪しいんじゃねェかと踏んでいるが、まだなんの証拠も掴めていないので余計なことは言えねェ。
しかし、相棒の不審な行動と海賊の不穏な動き、一つ一つの点が繋がっているのかもしれないと思うのには、十分すぎるほどの材料が揃っている。そうしていくうちにおれの脳内の中で様々な思惑が肥大化し、もうそうとしか思えないようになっちまっていた。
勿論、長年連れ添ってきたアイツのことを信じられねえのかと言われたら、そんなつもりは一ミリもない。ただ―――アイツがおれに見せてきたあの表情を思い出すと、どうにも腑に落ちないところが多くて仕方がなかった。
思えばずっとおれのことを傍で支えてきたし、大佐という立場上おれよりも責任は重い。そんなアイツの心の内に秘めているものなんて、本来は誰にもわかるはずがなかったんだ。
しかし、それをなんとかして探ることはおれには出来なかった。
きっと、疑惑を信じたくないと己の心が叫んでいるのだろう。ただそれ以上に日々の任務に忙殺され、刻一刻を争う事態に心を痛める暇さえもなかったのだとも思う。
そうして今日もまた、不惑を抱えたまま眠りにつくのだ。
◇
微睡むような視界の中、ふと身体を起こすとおれの顔を覗き込むコビーの姿があった。
だがそれは海軍コートをはためかせた姿ではなく―――幼く、おどおどとして落ち着きがない昔のコビーの姿だ。その肩にはでかでかと「雑」の字が刻印されている。
そうか、これは夢なんだ。そう確信したのもつかの間、おれがコビーと出会ってからの出来事がまるで昨日起きたことのように再生されていく。
「ヘルメッポさん! また今日もさぼって!」
「……んだよ」
「さぼったらぼくも怒られるんですからね! ほら早く!」
そう言ってコビーはパタパタと廊下を駆け出して行った。
ああ、なんか懐かしいな。まだ小せー背中が、なんだか妙に愛おしい。
また別のとき。こんときおれは確か怪我をしたんだっけ。
「ってえ……」
「大丈夫? 手当しなきゃ」
救急箱を片手にコビーが駆け寄ってくる。
「これくらい平気だ……てか、お前のほうが傷多くねえ?」
そう言って視線を向けた先の、コビーの手指や腕の絆創膏が痛々しい。
こんときからずっとそうだよな。お前は自分で受けた傷を隠したがる。
また別の日。二人で夜の見張りやってたときだ。
「お前は……どうして海軍に入ろうと思ったんだ?」
自分の言葉が脳内で反響する。昔のおれは、そんなことを尋ねていたらしい。
「い、いきなりどうしたの」
「別に。ただ気になっただけだ。お前も見ただろう。親父……モーガンのことを」
「……」
「海軍なんてお前が望んでるよりいいもんなんかじゃねェよ。東の海だからってだけじゃねェ。本部のやつらだって何考えてっかわかんない」
夢の中のおれがコビーに言葉を投げかける。親父のことは今となっちゃあどうでもいいが、海軍に対する不惑の思いは今も昔も変わってなかったんだな。
「うーん……」
それを聞いたコビーは少し考え込むように腕を組み、目を伏せた。
「そりゃあ、最初はぼくをひどい目に遭わせた海賊を裁きたい想いで志願しましたけど……それよりも、なにより」
「?」
そっと息を吸い込むと、コビーは顔を上げて言葉を続けた。
「自分の志を、死にもの狂いで貫きたい。と思ったからです。……これルフィさんの受け売りなんですけど」
そういうとコビーは照れ隠しのように頭を掻いた。その言葉―――たとえ受け売りでも、コビーの本当の思いを再び聞くことができて、おれはなんだか嬉しかった。
しかし、まだ何か引っかかっているものがあった。
それはある意味なにか確信めいた思いで、ずっと心の中に沈殿していた気持ち。
ほぼ毎日のようにアイツから聞いていた麦わらの存在も、今は何故か心が痛い。
……なあコビー。
その志は、どこを向いているんだろうな。
その拳で貫けないことが起きたら、海軍という立場だって捨ててどこかへ消えてしまうんだろうな。―――そしていつかきっと、おれの前からも。
夢から目が覚めたその直後、嫌な予感が背後をよぎりおれは思わず廊下へと飛び出した。
コビーがいるはずだったその部屋に、アイツの姿は無かった。
【続きは書籍で】

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます