ヘルメッポさんが突然、煙草を辞めた。
 煙草が苦手なぼくとしては有り難いことだった。そもそも雑用兵にしては身の丈に合わない嗜好だと思っていたし、ヘルメッポさんが吸ってる時って大抵サボってるときであまりいいイメージがなかったから辞めてくれて嬉しいとすら思っていた。煙いし、服にも移るし。
 でもそれが、あまりにも唐突でぼくにはそれが気になってしまった。いつものノリで食後とかに「煙草は吸わないの?」と尋ねても、ヘルメッポさんは首を振るばかり。それどころか、上官に一本勧められても断るようになっているのを確認して、なんだかおかしいぞと妙な直感が湧いてしまった。
 ヘルメッポさんは、媚びを売るのがうまい。というと言い方が悪いような気がするが、まずそんな慈悲を目の前に差し出されたら、すぐに飛びつくような人間なのだ。将来はもうちょっと空気を読むような感じもするが、少なくとも今まではそうだった。
 煙草は男所帯だと吸う人間は多い。それは物資が限られている船上でも例外は無い。むしろ苦手なぼくのほうが異端だと思うしぼくが煙が苦手でその一本を断ると「何だよ付き合い悪ィな」とまあ結構ドヤされた。煙草一本程度でそんなレッテルを張られてしまうのはなんか癪だが、きっとその代わりにヘルメッポさんがそういう役割を受けてくれていたんだろうと思うとこのままでは空気読めない雑用兵が二人だ。いや別にそれは構わないけれど。
 とにかく、煙草を辞めたこと自体は異議は無いのだけど理由が気になった。確か煙草には依存作用があってそうそう簡単には辞められないらしい。限られた金銭を切り詰めてまで町の煙草屋や酒保へと向かう姿は理解しがたいものだったが、ヘルメッポさんは辞めた日からそこへ向かう姿すらも見かけなくなった。
「行かなくていいんですか?」
 煙草屋を横目にぼくが尋ねると、ヘルメッポさんはふいとそっぽを向いて首を振った。
「あぁ、いいいい。今度新作の靴買うから貯めてんだよ」
 そう言うヘルメッポさんはいつも通りの調子で飄々としている。きっとこれは嘘ではないんだろう。確かに煙草よりもおしゃれな靴を買いに行くほうが有意義かもしれない。支給品で十分だとぼくは思うけど。
「えー! よかった! やっぱり海兵なら健全じゃないと」
「うっせ。別にそんなつもりで辞めたワケじゃねェし!」
 あっさりとそう返されて拍子抜けしてしまうがまあ確かにそういうものか。煙草なんてものは辞められるなら辞めたほうがいいと思う。そう思う、けれども。
「それにしてもどうしたんです? 明らかに急でしたけど」
「……いや別に。お前に関係無ェだろ」
 そう言うヘルメッポさんの表情は、なんだか明らかに曇っているように見えた。

 もう一つ、気になってることがあった。ここ最近、ヘルメッポさんは服を脱がなくなった。
 ……いやなんか変な意味になっちゃうな。そういうのじゃなくて、ぼくの前で素肌を見せなくなった。着替えの時はそそくさと別室へ行ってしまうし、どんなに暑くて汗だくになっても腕まくり一つしない。そのくらい暑ければ流石のヘルメッポさんでも脱ぐだろうと思ったのだけれど……まるで何か隠したいものでもあるみたいに、絶対に肌を見せようとしなかった。
 かといって骨折とか重大な怪我を負っている素振りでもないし、いつも通りの文句ばかり垂れるヘルメッポさんがそこには居た。いったい何故なんだろう。寝込みのハンモックに入って強制的に服を脱がせればわかるんだろうけど、ぼくら以外の人間もいる大部屋ゆえにそれはまた変な噂が立ちそうだから辞めておく。
 それでまた煙草を辞めたタイミングとほぼ同時なこともあって、ますますわからなくなった。例えば急に健康志向に目覚めたとか、それで筋肉の無い身体を見られたくないとかだったら別に問題ない。それで健康的な趣味に目覚めてくれたらこんなに喜ばしいことはない。
 だけど、どう考えてもそれは違った。
 あれほどダラけていたのに突然真面目になったりしたらそれこそ変だ。だからそうではなくて……もっと深いところに何かがあるのかもしれない。例えば誰にも言えない秘密とかそういう類のものが。
 それをぼくには知る権利はないのだろうか。そんなことを考えてしまっているうちにどんどん気持ちが沈んでいくのが分かった。やっぱりぼくは、ヘルメッポさんにまだまだ信用されていないんだ。

「ヘルメッポさん、ぼくになんか隠してることないですか?」
 夕暮れ時の片付けの時、ついに言葉が口をついた。駆け引きとか、そういうのは苦手だ。だからシンプルな言葉で問い詰めるしかぼくには思いつかなかった。
「……はぁっ?」
 ヘルメッポさんは眉間に皺を寄せて怪訝そうな顔を浮かべる。その瞳には、警戒心がありありと滲み出ていた。
「な……なんでお前に隠し事しなきゃなんねェんだよ!」
 そう言うとヘルメッポさんは不自然なほどに服の袖を引っ張った。いや隠すの下手だな。ちょっと動揺しつつもぼくはじっとヘルメッポさんの目を見て言った。
「なんか最近、よそよそしい気がして……着替えとか、すぐ別のとこ行っちゃうし」
「あー……」
 ヘルメッポさんは一瞬言葉に詰まったかのように口ごもったが、思い出したかのように顔を上げてこちらを見た。
「ちょっとな、怪我したんだよ」
「怪我!?」
「それがさぁ、ちょっとおマヌケなやつだから見せたくねーってだけ!」
 ほらこれ! と言ってヘルメッポさんが背中部分をまくり上げると、確かに大きめの範囲がガーゼで覆われていた。そうじゃなくても細かい傷で絆創膏まみれな背中だけれども、その傷は確かに見せたくはないかもしれない。
「な、なるほど……って、なんで隠してたんですか」
「痛ェから。そりゃ見られたくねェだろ普通!」
「いや確かに見た感じ痛そうだけど……。なんで今まで教えてくれなかったんですか」
「なんでって……その……別に隠してもいいだろ!」
 ヘルメッポさんは少し気まずそうに目を逸らした。その態度がより一層不審だった。
 しかし、こんな怪我をしていると知っていたらもっと丁寧に扱ってあげたのに。痛くないのかと心配しながらそっと触れてみると彼は大袈裟に跳ね上がって手を払いのける。
「触ンじゃねェ! 擦れたら痛ェんだよ!」
 そう言われてしまった以上は仕方ないので大人しく手を引っ込めるしかない。ぼくはそれ以上は何も言えず、立ち去るヘルメッポさんの背中をただ見つめることしかできなかった。

 不自然ではある、が、腑には落ちている。怪我をした理由が何なのかは全く見当もつかないが、船から落ちただとか、ストーブに当たりすぎたとかそんな感じだったら心配をかける必要は無いし見せる必要もない。もしもそれで病院とかに行かなきゃいけない怪我だったら流石に軍医が診察してくれるはずだし。煙草を辞めた理由だって、まあ、その、うーん、看病受けてるときに指摘されたとかそんなんかなと思う。それにしてはキッパリと辞められて偉いと思うけど。そんな感じで色々納得しつつもやっぱり何か引っかかるものを胸の奥底に残している自分が居るのも確かだったのだ。
 その後も相変わらずヘルメッポさんは何も教えてくれることはなかったし、むしろ余計に遠ざけられているような気さえしていた。その証拠に、着替えや洗面など以前までは一緒にしていた行為でも今ではどこかよそよそしい態度になってしまっていることに気づいたからだ。まるで他人行儀のような距離感に戸惑う日々が続いていたけれど、それでもやはり気になるものは気になる。気にはなるけどもそれはきっと言葉通りのもの以上のものは無くて、それでこの話は終了なんだと思っていたんだ。

 それが分かったのは、幾月か経った時だった。いつものように雑用任務を終えていると、別室で作業をしていたはずのヘルメッポさんの気配がない。またサボってるのかなと呆れつつも咎めに行くためにヘルメッポさんの担当の個室へと向かったが、やっぱりいない。どころか掃除用のバケツや雑巾が置きっぱなしになっている。本当に困った人だなと呟きながらその辺りを片づけると、机の下にあるものを見つけた。
「これは……?」
 深い藍色をしたスカーフだった。というか、ぼくの付けてるものと全く一緒のデザインの、襟に巻くスタイルの雑用兵のスカーフ。おそらくヘルメッポさんのものだろうと思われるが、こんなものをわざわざ脱いで落とすとは到底思えない。
 なんだろう、この胸騒ぎは。ゾクリと嫌な予感が頭を過る。それと同時に、「ひゃあ゛あっ――!!」という悲鳴に似た声が耳を劈いて聞こえてきた。
――ヘルメッポさん!!
 反射的に身体が動いていた。声のするほうへと駆け出すとそこはトイレであった。洗い場を抜け、個室のさらに奥の、用具置き場。スペースを空ける代わりに床に乱雑に置かれたであろうモップを蹴り上げながら、その部屋の扉の前へと駆け込んだ。
 扉の向こうで、くぐもった声が聞こえる。
「あーあ、てめェにヤキいれんのも飽きてきたな。——おい、あの眼鏡の奴連れて来い」
「……っ、お、おいっ、アイツには手ェださねェって約束だろ!!」
 そう言って抗議をする声は、確かにヘルメッポさんのものだった。勘違いであってほしい、とすら思っていたのに、その願いは無残にも打ち砕かれた。
 ヘルメッポさんが、誰かと取っ組み合いの喧嘩をしている。――いや、しているのか? その割には相手が呻いている場面はなく、ヘルメッポさんの苦しそうな息遣いばかりが聞こえてくる。
 ぼくは咄嗟に扉へと手をかけた。鍵は掛かっていない。そのまま一気に引き開けると、そこには想像通りの光景が広がっていた。
「……コビーっ!?」
 ヘルメッポさんが驚いた顔でこちらを見つめる。喧嘩の相手は一人ではなく。複数人に羽交い締めにされて身動きを封じられていた。ちらりと見えるお腹からは、まだ新しい火傷の――煙草を押し付けたかのような痕がそこら中に散らばっていた。
「……あ、……え……」
 呆然とするぼくを嘲るように、煙草を持った人物は白い帽子を再び被り直す。そう、ヘルメッポさんを無遠慮に虐めていたのは、全員まとめて同じ海軍の海兵なのだ。
「おいおい当人から来てくれたぜ、嬉しいよなァボンボン息子さまよォ」
「斧手でおれらが受けた傷の分、お前も受けとけよ。連帯責任だもんなァ」
 そう言って海兵たちはゲラゲラと笑う。そのあまりにも残虐な行為に、カッと頭が熱くなる感覚を覚えた。
「こ、コビー……おれのことはいいから……逃げ」
「ヘルメッポさんを返せッ!!」
 もはや立場とか階級とかそんなものはどうでもよかった。ぼくは許せない気持ちのままその怒りをぶつけるかのように、大声を上げて海兵たちに飛び掛かった。

 数時間後――東の海支部の執務室で、ぼくらは立たされていた。事態が収まった頃には二人ともズタボロで、看病してもらった消毒液が染みる。もはや誰がボコられてたのかわからないほどには顔が腫れ上がって、もうどうしようもない。
 煙草を押し付けてた奴の顛末は、知らない。厳罰を食らったとの噂だけど、なんならクビになったほうがよかったのにとすら思っている。
「ま、まあ、ちょっと……な、こういうとこだし、再発せんよう努力はするけど……な!」
 支部長であるリッパー中佐が心底面倒そうにため息をつく。正当防衛なのはわかるが、過剰防衛だぞと言わんばかりの目つきでぼくを見つめていた。
 ヘルメッポさんは、泣いていた。悔しさなのか、情けなさなのか、あるいは両方なのだろうか。肩口から見える煙草の痕が、未だ痛々しい。
 そうしていると、こんないざこざに手間を割く必要などないとばかりにさっさと追い出された。きっとこんなことは日常茶飯事で、いちいち付き合っていられないんだろう。
 廊下で立ち尽くし、ぼくもヘルメッポさんもしばらく無言だった。だけどこのままでいるわけにもいかない。黙ったまま徐ろに歩き出すと、ヘルメッポさんもトボトボと後ろをついてきた。
「ヘルメッポさん」
 ぼくは立ち止まって振り返る。彼はまだ俯いていて、表情はよく見えない。
「……すまん、コビー……おれのせいで……」
「いいんです、もう。それにぼくこそごめんなさい。もっと早く気づいてあげられたらよかったのに」
 声が震えて、情けなさで喉が詰まる。ずっと隣にいたのに何も守れていなかったことがただただ悔しくて、辛くて。このやるせない気持ちを、どこにぶつけていいかわからなくてぼくは歯を食いしばる。
「ど、どこまでされてたんですか」
 それを聞いた瞬間、自分でも後悔した。本当は欠片も聞きたくない。けれども、どうしてもこれを尋ねずにはいられなかった。
 ヘルメッポさんは一瞬押し黙ったあと、そっと口を開いた。
「……腹パンとか、水かけられたりとか、あと爪……」
「うっ……」
 ぼくは思わず吐き気を催した。それ以上言わなくてもその痛みは想像に固くない。それと同時にあの海兵たちの下劣な笑い声と顔がフラッシュバックする。怒りに我を忘れそうになるもなんとか抑えて深呼吸をした。
「でもお前にバレたくねェから顔だけは辞めろっつったんだ。わかんなかっただろ?」
 そう言うとヘルメッポさんは顔を上げて、へらりと作り笑いを浮かべた。なんでそんな状況で笑えるのか、全くわからない。
「……ッ!! なんでそんな自慢げに話すんですか!!」
 思わず声を荒らげて再びヘルメッポさんの両肩を掴んでしまった。その勢いで威圧感を感じたのか、ヘルメッポさんは一瞬怯えた表情を浮かべてその手から離れようと抵抗する仕草が見えて、一瞬だけでも彼を怯えさせてしまったことを激しく後悔した。
「……悪かったな」
 そう言って、ヘルメッポさんは目を逸らした。
「ヘルメッポさん……」
 なんて言葉をかけるべきなのかがわからない。けれども何か言わなくてはと思ったそのときには、すでにぼくの身体は勝手に動いていた。
 ぐいとヘルメッポさんの身体を引き寄せ、そっと抱きしめた。ヘルメッポさんは初めは驚いて固まっていたものの、やがて腕を回して抱き返してきた。
「……男に抱きつかれる趣味はねェんだが」
「いいんです、気持ち悪がってください。それでもぼくがしたいからするだけです」
「んだよ、それ……」
 それを聞くと、ヘルメッポさんは呆れたようにそっとぼくの肩口に顔を擦り寄せてきた。じんわりと体温が巡るのを感じる。色んな感情がないまぜになって、なんだかヘルメッポさんより涙が溢れて出てしまっていた。
 ぼくはヘルメッポさんを抱きしめたまま、まるで自分に言い聞かせるように決意を顕わにする。
「――絶対に、ぜったいに偉くなります」
「そうだな」
「偉くなって、いい暮らしをして」
「ああ」
「あんなやつぶっ飛ばせるくらい、強くなって」
「……」
「強くて誰かを守れる海兵に、ぼくはなります」
 それを聞くと、ヘルメッポさんは俯いたまま絞り出すように言葉を零した。
「……バカが」
 ぶっきらぼうなその言葉は、少しだけ優しい気がした。

 そうして、とある日。
「あー!」
 業務終了間近の海軍本部。誰もいないベランダの向こう側で――なんとヘルメッポさんが煙草を吸っていた。
 見つかったかのようにバツの悪い顔を浮かべるヘルメッポさんは、ぼくの姿を見てさらに顔を顰めた。
「お前……よくここだってわかったな」
「そりゃあ探しましたから! 行きそうなトコ全部回ったんですよ!?」
 はあはあと息を荒らげてヘルメッポさんへと詰め寄ると、彼はへへっと悪戯そうに笑った。
「また懲りずに貴方は……」
「なんだよ。別にいいだろ?」
 ヘルメッポさんはそう言って旨そうに煙草を吸い、一気に白い煙を吐き出す。ぼくは呆れて、それ以上は何も言えなかった。
 だけど、背中のガーゼはもうない。あの日みたいな怯えた顔も、もうしていない。あの頃のトラウマを乗り越えた結果がそれならば、きっとそれだけでも十分なんだ。
「そっか……良かった」
「ん? おお、良いならいいけど」
 怪訝そうなヘルメッポさんが、再び煙をくゆらす。
 海から吹く風が、香りを連れて仄かに匂う。だけど今度は、別に嫌じゃなかった。

 

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